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行き当たりばったり 道中日記

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信長の野望に登場する戦国武将・剣豪・その他徒然の、ゆるい風味の紹介動画を作成しています。

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剣豪さ(略)特別編~植村家政のまき~ 

植村家政(1589~1560)
徳川家の家臣・植村家次の息子。大和高取藩主。
通称は新六郎。
慶長四年(1599)10月、体調が悪化していた父に代わり家督を継ぐ。(11月に父が死去。)
徳川秀忠に小姓として付くこととなる。(この時点での知行は五百石)
慶長十三年(1608)、御徒頭(歩兵の下級武士集団のトップ)に任じられる。また、従五位下と志摩守を賜る。
慶長十九年(1614)~慶長二十年(1615)の大坂の役では、武功により千石加増。出羽守任官。(千五百石)
三代将軍・徳川家光の世になると、大番頭(旗本で編成された常備兵力のトップ)に任じられ三千五百石加増。(四千石)
寛永十年(1625)には四千石を加増される。(九千石)
寛永十四年(1637)に大和高遠の本多政武(徳川家臣の本多氏とは縁はない。元豊臣秀長家臣の家柄である)が嫡子なく死去した為、空席となった大和高遠の藩主に抜擢される。そして、一万六千石加増され、ここに二万五千石の大名・植村家政が誕生する。
慶安三年(1650)没、62歳。この後、植村氏は明治維新まで続く。


忠明「まて、経歴を見ると、泣ける話ではないではないか。むしろいい話だろう」
宗矩「後半の加増されっぷりは、すごいですよねぇ」
家政「曽祖父からの因縁と、苦難を思うと・・・出来すぎですね」
忠明「植村家は、新参の俺たちよりも古くから徳川家に仕えているのだから、当然と言う気もするが」
宗矩「苦労されたのなら、それを評価されての加増ではないですか」
家政「そ、そうでしょうか」
忠明「謙遜は時に美徳とも言えんぞ」
宗矩「せっかくですから、植村家のご苦労をお話いただけませんか?差し支えなければですが」
家政「・・・それでは、一曲お聞きください」
忠明&宗矩「一曲・・・?」

~植村家はつらいよ・植村家テーマソング~

わたくし 生まれも育ちも 三州三河です。
遠州灘で産湯を使い 姓は植村 名は新六郎
人呼んで 植村氏明と発します

殿の警護は 俺にまかせろ
鞍馬の剣のするどさよ
いつも離れぬ主君の側を
清康公を守るため
奮闘努力の甲斐もなく
森山崩れ
森山崩れて 日が落ちる
日が落ちる

(間奏・続きまして、氏明の子、植村家存参ります) 

主君守れぬ父の無念を
晴らすと心に誓い立て
意地を張りつつ涙も見せぬ
三河武士の心意気
若き主君を守らんと
太刀をたずさえ
我が身一つの 限り知る
限り知る

漢というもの辛いもの
顔は怒って 
顔で怒って腹で泣く 腹で泣く

(セリフ・植村家次)
信康公が腹を召し 主家を飛び出し西へ東へ
今また舞い戻り みなみなさまにご厄介かけがちな若造です
以後見苦しきこの身 お見知りおかれまして
恐惶万端引き立って よろしくおたの申します

家政「・・・と、このような次第でございます」
忠明「曲調は明るいが、物悲しさを感じさせる歌だ・・・」
宗矩「そうですね(遠州灘の産湯はどうかと思うけど・・・突っ込みはよそう)」
家政「なんと申しますか、発端はやはり清康公が乱心した阿部正豊に斬られ落命した森山崩れですね」
忠明「氏明殿は、鞍馬流を使われるのか」
宗矩「京流の一つですね。確か、流祖は源義経公に剣を教えたという鬼一法眼殿とか」
家政「はい。相当の使い手だったそうです。それだけに、乱心者から主君を守れなかったことが大きな悔いだったのだと思います」
忠明「状況はわからないが、主君が斬りつけられたあと、すぐに応戦して下手人を討ち取っているのだな」
宗矩「襲われるのを阻止できなかったのは、さぞかし無念でしょうね」
家政「ええ。名君と言われた清康公が亡くなられると、松平家は苦境に立たされることになりますし、曽祖父も祖父もいっそう、主家を支えようと身を削られたと思います」
宗矩「氏明殿は沓掛での織田軍との戦で戦死なさって、ご子息の家政殿が家督を継ぐんですね」
忠明「家政?家存殿の前名は、同じなのだな」
家政「はい、勇敢な祖父の名前を継がせていただきました。曽祖父直伝の刀と槍の腕前に、織田信長の前でも若き家康公をお守りするため太刀を持ちお側に従った忠義のお方です」
宗矩「家存殿というと、家康公のお父君・広忠様暗殺の件で下手人を討ち取られたと聞きますが」
忠明「親子二代でそんな場にでくわしたのか?」
家政「そのようです・・・しかも、どちらも守れずです。だからこそ、二度とそのような事態をおこすまいとして、祖父・家政は家康公の側についていたのでしょう」
宗矩「その後、家存殿は若くしてお亡くなりに、お父上の家次殿も松平信康公の一件で、出奔されてしまわれた」
忠明「みな、主君がらみの苦難続きか」
家政「はい。それで父も流浪中様々な世の様子を見聞し、逃げることをやめ、徳川のために再度出直そうと考え、徳川家三傑のお一人、榊原康政様に口ぞえを頼み、徳川家臣として復帰したのです」
宗矩「なるほど、榊原様は、家存殿の没後にそのお仕事を引き継いでおられた方ですからね」
忠明「それに、情に厚い方だと聞くし」
家政「はい。徳川帰参まで、知行やら屋敷やらお世話くださって」
宗矩「けれど、せっかく帰参がかなったのに、家次殿もすぐに亡くなってしまわれたのですね」
忠明「心労がかさんだせいだろうか」
家政「そうだと思います。私も10歳で家督を継ぐことになりましたが、踏ん張らねばと心を励ましてお仕え致しました」
忠明「そういえば、家次殿は兵法はどうだったのだろうか?」
家政「祖父から手ほどきは受けていたようですが、途中で祖父が亡くなったので、京流は中途でした。信康公のお側にいる間に、研鑽を重ねていたようですし、自分も曽祖父の代からの武勇を損なわないよう、秀忠さまのご指南役であるお二人にはお世話になりました!」
宗矩「いやいや、私もよい友人にめぐり合えてよかったです」
忠明「俺はすぐにクビになったから、そんなに世話はしてないがな・・・」
家政「そ、そんなこと・・・関ヶ原でも大坂でも、忠明殿がんばっておられましたよ!?秀忠様だって、周囲に言われて仕方なくで、それに、忠明殿は強くてお可愛らしくて自分は好きですよ!!」

宗矩(な、なんつーことを!忠明殿が激怒して襲い掛かったら、俺が止めるしかないよ!?やだなぁ)
忠明「うう・・・」
家政「兵法に一心に努力なさるお姿、秀忠様もご理解なさっていたからこそ、改易などされなかったのです、私は秀忠様の小姓をしておりましたから、わかっております」
忠明「そ、そうか、そうなのか・・・だが、かわいいとか、そういう発言は困る」
宗矩(・・・デレた。純粋に褒められると弱いのか。この真っ直ぐさに家光様もコロッと行った・・・んじゃないだろうな・・・)

つづく

ざっと植村家でした。
引き続き剣術にかこつけてもはや別の話題です。
植村家政さん、急激に加増を受けた為、大名になった時には家臣が不足しており、赴任地に向かう途中、求人しながら向かったと言う話があります。
また、家光が品川で馬揃えを行った時は、美々しい晴れ姿で家光から褒美をもらったこともあるそうです。
柳生宗矩と友達だったという説がありますが、信憑性はありません。
ただ、個人的に秀忠つながりで面識が出来て茶のみ友達になっていたらいいなぁという願望で上記の流れになっています。


ぼやく時間はあれど、しっかりじっくり記事を書く時間がめっきりとれなくなり、更新がおろそかになり申し訳ありません。
残るは、尾張殿、しかみ像では痩せていたのに・・・な方のお二人です。
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