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行き当たりばったり 道中日記

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信長の野望に登場する戦国武将・剣豪・その他徒然の、ゆるい風味の紹介動画を作成しています。

長野業正と上杉憲政・1 

※・・・というわけで、今回もすっ飛ばし会話パートです。

高幹「隠れツンデレジジイか。可愛いもんじゃのぉ」
業正「黙れ、出たがり老人」
高幹「(こいつ・・・あとで〆る)・・・あのボンクラ殿のこと、見捨てたもんだと思っておったが」
業正「おい、あの方の悪い話は北条の撒いた嘘も混じっているのだぞ?軽々しく罵倒しないで貰おう」
高幹「仕方が無かろう?実際はどうあれ、河越でも笛吹峠でも手酷く負けているのが周囲に知れている以上、その嘘も完全には否定もできまい」
業正「ああ、お前さんの言うとおりだな・・・まったく無様な話よ、ふ・・・ふふ」
高幹「・・・お主」
業正「ふははは、まったく笑いたいほど無様よ、ボンクラ殿の手綱一つ満足に握れなんだ“戦上手”などなぁ?」
高幹「・・・」
業正「良い将なら、主人の短所をわきまえ、よく動かしたであろう。わしには何一つ出来なかった。出来ていれば、河越であのような大敗はさせなんだものを・・・笠原の救援など行かせず、武田に上州を攻める口実など作らせなんだものを・・・くくっ、お笑い種よ、全てくだらん負け惜しみよ」
高幹「ああ、くだらんな・・・実に、くだらん戯言じゃ」
業正「ふ、はっきり言いおる」
高幹「年寄りの愚痴ほどくだらんものはないわい・・・過ぎ去ったことを振り返るばかりでの」
業正「はは、鹿島様は手厳しいですな」
高幹「茶化すな。しかし、ようわかった。何故お主は上杉から離反した後、武田とも北条とも結ばなかったのか」
業正「ほう?」
高幹「なんだかんだで、あの若いのを気にかけていたんだろう?長尾と手を取って上州を守り、いずれ戻ってくる時を期待していたのじゃろう」
業正「勝手に人の気持ちを知ったように語らんでもらおう」
高幹「お、焦ったな?図星じゃろ?」
業正「武田信玄も北条氏康も、個人的に好かんかっただけよ。虎や獅子では相容れぬ・・・わしも一応、黄斑(虎)と呼ばれた同類ゆえ、な」
高幹「ふん、たがいのナワバリは譲れぬと・・・で、越後の龍なら問題ないと言うことか?」
業正「ああそうだ。龍殿のほうが、獣よりは信用できるだろうが」
高幹「ふ~ん」
業正「・・・そういう目はやめろ」
高幹「ま、いいわい。そう言うならそう言う事にしておいてやるわい・・・こやつがツンデレかどうか判断するのは外野の方々じゃからの。本人ではなく
業正「おい、小声で何の話」
高幹「さ~て、この話は仕舞いじゃ、仕舞い」
業正「おい、誰が何だと!?」

おわり

・・・当初の予定よりも、業正さんのキャラクターが違う方向に行ってます(笑)。これもアリですかね?会わなかったらごめんなさい。
100%義理人情で動く人間はいないと思います。長野業正も、忠誠心だけで上州で誰にも従わずに頑張っていたわけではないでしょう。そうした時に、どう思っていたのかな?・・・まぁそんな妄想でした。
爺さんばっかりですみません。まだ当分、この調子です。
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平安のプレイボーイ→戦国のry 

上野長野氏は、在原業平の子孫を称しています。ただし、根拠はない。
さて在原業平について簡単な略歴を

在原業平(825~880)
ありわらのなりひら。平安時代の貴族。
三十六歌仙、六歌仙の一人。また『伊勢物語』の主人公とされる。
父は平城天皇の第一皇子・阿保親王、母は桓武天皇の皇女というリアル血筋チート。
その人物は、平安時代の歴史書『日本三代実録』には「業平体貌閑麗。放縦レ不拘。略二無才一学。善二作倭一歌」(適当な訳:業平はイケメンで気ままに行動する。あんま学は無いけどいい歌を詠む。)と書かれていることからもおよそ知れるかと思う。

伊勢物語は、イケメンが各地で女性といい仲になったり振られてショボーンとなったりする歌物語。出だしは「昔、男ありけり~」で、これは聞いた事がある方もいるかと思います。
まさに、平安のプレイボーイである業平の子孫な?長野業正。12人の娘は美女ぞろい、だから父親もきっとイケメンだろ、先祖的に考えて・・・そんな認識でやってます。ほら、家紋も檜扇でなんか洒落てるし!(こじつけにすらなってない)

さて、毎度おなじみなんのひねりもないダメ会話コーナー。ほぼ大嘘です、すいません。

高幹「なにが“今業平”じゃ」
業正「そうやって調子に乗っていた時期がわしにもありました」
高幹「この乱世で、お気楽なもんじゃな」
業正「まぁ、なんだ。親父殿が健在の頃は、わしが出る幕はなかったしな」
高幹「憲業殿か・・・かなりやり手だったようじゃの」
業正「ああ。箕輪長野家を、山内上杉家の中で有力な立場までのし上げたわけだからな」
高幹「だからこそ、警戒されてしまったとも言えるがのぉ」
業正「それは否定できんな・・・家中で発言権を得るには力が必要だが、性急な権力拡大が仇となったのはわし自身も感じているところだ」
高幹「しかし・・・若い頃の記録がないと思ったら、自分に都合が悪いから抹消しおったな?」
業正「急に話の腰を折るな」
高幹「折ってなどおらん、話の中心はお主のことじゃ」
業正「武田が焼いたんじゃないか?箕輪城は落城したし、その時にわしの若い頃のメモリアルも炎の中に消えてしまったのだろうなー、勿体無いなー、ざんねんだなー」
高幹「そんなに言いたくない過去なのか?」
業正「そういうわけではないが・・・面白い話でもないぞ?」
高幹「ええい!勿体つけずに話してしまえ!!」
業正「やれやれ、うるさい爺さんだ」
高幹「なんじゃと!?」
業正「さて、話すぞ・・・わしは生まれつき面立ちが整っていたらしく、侍女達もとっかえひっかえわしの姿を隠れて覗きに来てはキャーキャー騒がれて困ったもんだったな」
高幹「・・・」
業正「で、ある時家臣たちが『若、社会勉強ですぞ』と城の外に誘って、付いて行ったその日から、まぁ、勉学にいそしんでだな・・・夜遊びとか」
高幹「・・・・・」
業正「結構外は危険でな。ごろつき共と争ううちに、自然と戦う術も学んだし、自分でも兵学を学んだ。知識と体力が付いてくると、それを使ってさらにモテたしな。まぁ、そんな調子で毎日派手なケンカと女遊びをしたわけだ。親父殿も最初は黙認していたが、そのうちあまりに酷いので一時は廃嫡寸前になった。それに懲りて派手な振る舞いは以降やめた・・・どうだ、面白いか?」
高幹「お主・・・馬鹿じゃろ、死ぬんじゃろ?」
業正「うるさい黙れ。だから話したくなかったんだ」
高幹「まったく、妻一筋だったわしからすると、お主の振る舞いは信じられんわ」
業正「しかしな、自分を好いてくれるおなごを放っては置けんだろう?おなごは皆、すべからく幸せになるべきなのだよ」
高幹「・・・」
業正「まぁ、なんだかんだで一番は我が妻だな。最大の理解者にして、安らぎの場所だ」
高幹「・・・子供の数を見ればわかるわい」
業正「あ、女遊びはしたが、外に子供を作らぬ程度の節度は持っていたからな。いらぬ子を成せばみな不幸になるからな」
高幹「あー、わかったわかった」
業正「なんで急に投げやりになる?お前さんから振られた話をしているんだぞ」
高幹「このまま突っ込んで行くと、ますますお主のイメージが壊れそうじゃしな・・・(世間的に)」
業正「・・・ところで、聞いても良いか?」
高幹「なんじゃ?」
業正「もてないってどんな気持ちなんだろうな?ここまで生きてきて、そこがどうにもわからんのだが」
高幹「・・・お主とは、もっとじっくりと対話をせねばならんようだな・・・」
業正「まて、おい、刀はよせ、秀綱どのっ!このじじいを止めてくれ!!」
秀綱「は~い」
高幹「はなせ!一太刀入れねば気が済まん!!男子の敵だ!!!」
秀綱「はいはい、一の太刀入れたら即死ですから、やめましょうね」

強制終了

別段、ト伝先生がもててないってことでもないです。愛妻家ですし。
でも、ト伝百歌に「女は剣の道に無用」みたいな歌があったので、何か女で悪い思い出でもあるのかと邪推している今日この頃。いろいろと自重してなくてすいません。
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長野業正について。 

長野業正(1491~1561) ※生年には1499年説もあり。
長野憲業(または信業)の子。
若い頃の記録については不明。
天文15(1546)年5月、北条氏康と上杉憲政(山内上杉)、上杉朝定(扇谷上杉)、足利晴氏の連合軍と戦った、河越夜戦に参加。連合軍は氏康の策の前に大敗を喫し(軍記物では、氏康の行動には罠があると憲政に注意したが聞き入れられなかったと描かれる)、業正の長男の吉業はこの戦での怪我が元で後日亡くなった。
天文16年、武田晴信との笛吹峠(碓氷峠)の戦いには参加せず(軍記物では、「武田とは敵対していないのに、こちらから攻めては無駄に敵を増やすことになる」と諌めたが聞き入れられず、憤慨して箕輪城に帰ってしまったことになっている)、この頃から上杉憲政との間に微妙な空気が流れ始めていたと思われる。(業正は、晴信から内応の誘いを受け、これを断っていた)
天文21(1552)年、御嶽城(武蔵国の城。安保氏の守る城)が氏康によって攻め落とされ、憲政の居城である上野平井城が危機に陥ったが、業正は西上野衆を取りまとめて憲政から離反した。
軍記物において、業正は最後まで主君を支えた忠臣として描かれ、武田信玄の侵攻を6度退けたとされているが、これを裏付ける一次資料はなく、後世の創作と言われている。
永禄3(1560)年の上杉謙信が北条氏康を攻めるため関東に来た際には、これに加わり北条氏と戦っている。
翌年の11月(6月という異説あり)に病没。71歳。

※塚原ト伝と長野業正に特に関連はないです。念のため。単に、年が近い出たがり爺だと思ったから、話が合いそうかな、と。

高幹「・・・で?どっちなんじゃ」
業正「なにが?」
高幹「お主は、義を取ったのか?それとも利を取ったのか?」
業正「さて、問題だ」
高幹「なぬ?」
業正「主君に忠告して、無視されて、仕方が無いから離反した。しかも、武田に内応しようとしているなんて疑いまでかけられていたから、弁明もできなかった。主家に尽くしたのに報われなかった気の毒な老人のわし。でも、北条にも武田にも従わずに居続けたのは、きっとまだ主君を想っていたからに違いない一途なわし・・・どう思う?」
高幹「・・・白井長尾の家中の騒動に介入してちゃっかり実権を握っていた部分が抜けとるぞ」
業正「おお、わしとしたことが、ついうっかり」
高幹「まったく、しっかりしておるわい」
業正「そりゃ、乱世の武将ならちょっとした食い気くらい出すともさ」
高幹「それで憲政殿に警戒されたと言うことも、ありうるかのぅ?」
業正「かもしれんな。わしの台頭を面白く思わぬ、重臣たちもいたはずだしな」
高幹「しかし・・・山内、扇谷、もとは一緒のはずが・・・よくまぁ、同族同士でくっついたり争ったり」
業正「長尾も親子で対立したりしていたしな」
高幹「そこにつけこんだわけじゃな」
業正「そうなるな」
高幹「うまいことやったわけか」
業正「そういう言い方は心外だ。いつまでも身内でグダグダ争われてはたまらんし。どっちかを助けて、とにかくまとまってもらいたいという気持ちもあったんだぞ?」
高幹「だが、おぬしの気持ちとは裏腹に、主家との溝は深まるばかりだったようだのぉ」
業正「そこに関しては、なんとも言えん。あの方がもっと先の読める方ならよかったのか、わしがもっと貪欲に行動してしまえばよかったのか・・・ともあれ、結果はご覧の通り、後を継いだ業盛にはすまないことをしたな」
高幹「そういや、お主死ぬ前に遺言を残しとったな」
業正「ああ。『墓は一里塚のような粗末さでおk、法要はイラネ、敵の首を供えろ、敵に降伏するくらいなら潔く自害だろJk』・・・ちと厳しすぎたかな?」
高幹「厳しいなんてもんじゃねーだろが!死にそうでヤケになったような遺言だな、まったく・・・」
業正「お前さんこそ、養子たちに子供のいたずらみたいな跡継ぎテストしておるだろうが」
高幹「お前のスパルタな遺言よりはかわいいもんじゃろ」
業正「そんなもんかね」
高幹「・・・ところで」
業正「まだなんかあるんかい」
高幹「お主が死んだ時、息子は14歳だよな」
業正「そうだな」
高幹「その息子には、弟がいたそうじゃな」
業正「いるな」
高幹「・・・お主いくつで死んだんじゃっけ?」
業正「71歳」
高幹「・・・元気にも程があるな、じじい」
業正「お前さんにだけは言われたくないな」

おわり

というわけで、長野業正さんでした。
単なる「高義理の老将」ではなく、しっかりとした戦国の武将たるしたたかさもある渋めの爺さんであることが最近の研究でわかってきてますます好きになってます。じじいもっとやれ。
まだもうちょっと業正ネタ続きます。
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業正と諏訪神社 

群馬県高崎市箕郷町にある諏訪神社。諏訪信仰の神社のひとつです。
この神社の由緒が、1560年に長野業正が建立した。というものです。

この高崎の地名に「ト神」という地名が残っているのですが、その由来と言うのが、上記の諏訪神社が台風によって倒壊した後、なぜか塚原ト伝が再建したというものなのです。彼はその後、諏訪神社の近くで21日間の水行をしたとも伝わるそうです。

実際のところ、史実として観ると塚原ト伝と上泉信綱の関連は無いに等しいものです。
なぜならば、二人が共に師事していた松本備前守政信という人物の存在そのものが、不確かなものであるため。ま、たとえ政信の存在が確かだと言っても、二人の接触があったかはこれまた確かめようもないのですが・・・。

しかし、同じ流派を習い、上野と常陸という、比較的近い土地にいたのですから何がしかの交流が行われていたらいいなぁと思いますし、何よりも戦国の剣豪界の剣聖二人ですからね、コンビ組んだら最強ですよ!
ちなみに、松本政信は香取神道流の達人で、ト伝が信綱の兄弟子とされます。

長野業正と塚原ト伝の年齢差については、業正の生没年を1491年のほうで考えました。
1499年説もあるんですよね、業正さん。ト伝は1489年生まれです。

塚原高幹は、1555年頃に養子の幹重に家督を譲り、髷を落として「ト伝」と号するようになります。
そして、弘治二年(1556年)に六十八歳で三度目の廻国修行の旅に出ます・・・爺さん本当に元気すぎだろ。

長野業正と塚原ト伝・・・どっちの爺さんも、ほんと元気だと思いますよ。ええ。強い爺さん大好き。

※以下、ショートコント

高幹「たのもう!長野のジジイはいるか!?」
業正「おらんよ」
高幹「いるではないか、邪魔させてもらうぞ」
業正「・・・案内役の座は貴殿には譲らぬ、以上。お引き取りを」
高幹「なんだと、もう一度」
業正「・・・二度は言わぬよ」
高幹「・・・返せ、この役目はわしのだ」
業正「お主のモノでもなかろうに」
高幹「黙れ。一度引き受けたからには最後までやらせてもらうぞ」
業正「なんと、もう一度やり抜いたではないか。ト伝殿の関東戦国伝を」
高幹「まだ、まだ終わっておらぬわ」
業正「貪欲なのはよろしいが、少しは後身に道を譲らねば若者が育たぬと思うがな」
高幹「たかだか2歳下で、若者気取りか」
業正「若いのは事実だ」
高幹「強情な男よ」
業正「そちらもご同様ではないかな」
高幹「むむむ」
業正「・・・どうせそのうち、また来るつもりなのだろう?」
高幹「まぁな」
業正「毎回出張るよりも、ここぞと言う時に来ればどうかね。その方が印象に残るだろう」
高幹「・・・仕方ない、今回はその屁理屈に付き合ってやるとするか」
業正「では、譲ってくださると」
高幹「譲るとは言っておらぬ。その詭弁に付き合うだけの事」
業正「まったく、負けず嫌いなことだ」
高幹「ふん、お互い様よ」
業正「では、いずれまた」
高幹「ああ・・・せいぜい、他の武将に後れを取らぬようにな」
業正「心得ている。そうでなければ、お主にすぐ座を奪われてしまうからな」
高幹「お、わかっとるのぅ。じゃあな、まぁ頑張れ」
業正(やれやれ・・・元気なジイさんだ。)
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