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行き当たりばったり 道中日記

  // 

信長の野望に登場する戦国武将・剣豪・その他徒然の、ゆるい風味の紹介動画を作成しています。

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剣豪さんいらっしゃい・最終章~柳生宗矩のまき~ 

柳生宗矩(1571~1646)
戦国から江戸初期にかけての剣豪。柳生宗厳の五男。通称・又右衛門。
大和柳生藩初代藩主。江戸柳生家初代。
宗矩が生まれた時、柳生家は決して楽観できる状況ではなく、その年に長男・厳勝が戦で重傷を負っていた。
太閤検地では、隠田を発見され父の宗厳は領地を没収され、柳生家はさらに苦境に立たされることとなる。
宗矩が世に出たのは、文禄三年(1594)父と共に京へ向かい徳川家康に会ったことから始まる。宗厳の剣術に感銘を受けた家康はその場で弟子入りし、宗厳の紹介で宗矩は家康の小姓として従うこととなった。慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでは、筒井家などと協力して後方支援にあたり、それが評価されて宗矩は柳生家の旧領2000石を復帰することが叶う。そして慶六年(1601)、家康の嫡子・秀忠の剣術指南に任ぜられる。
元和二年(1616年)には、坂崎事件で幕府に反乱を企てようとした友人・坂崎直盛を説得し、切腹させ反乱を未然に防いだが、幕府は坂崎家を取り潰ししてしまい、それを悔いた宗矩は柳生家の家紋をこれより坂崎家の二枚笠とした。家康・秀忠と信任が厚く、それは家光の代になるとさらに増し、寛永六年(1629)には従五位下、但馬守に任官。寛永九年(1632)には初代の幕府総目付(大目付)となり、功績を挙げ加増も増えていき、最終的には一万二千五百石の大名となった、唯一の剣豪である。
同じ指南役であった小野忠明とは対照的に、主に政治面での活動が多く、宗矩が人を斬った記録は大坂の役で秀忠を守る為に刀を振るって敵を七人瞬く間に倒したときだけとされる。


宗矩「ほら、饅頭のカス落として、餡子取って」
忠明「う、うるさい!ちゃんと取る!」
宗矩「まったく、最後の最後ですよ。しっかりやってください」
忠明「これ食べたらやる!」
宗矩「・・・(やれやれ、化け物みたいに強いくせに、他は子供なんだから)」
忠明「・・・そう言えば、これが終わったら柳生は何を殿に頂くのだ」
宗矩「休暇です」
忠明「普通だな」
宗矩「柳生の庄へ戻ってゆっくりできる休暇です。私にとっては何にも換え難いんですから」
忠明「そう言えば、お前の戦いというのはその柳生の旧領を取り戻すことが最初だったのだな」
宗矩「そうなりますね・・・思えば・・・」
忠明「思えば?」
宗矩「面倒な人生になったもんです」
忠明「面倒、か」
宗矩「ええ。小さな平和な里で、剣術馬鹿の親父と優しい母と、暖かい家族と、のんびり暮らせると思っていたら、長男が私が生まれたその年に大怪我を負い、すぐ上の四男は家を継ぐ気があるのかないのか・・・結局、幼い自分は『家を継がされるかもしれない』気分の中で過ごさざるを得ませんでした」
忠明「そして、柳生の里まで失ってしまった」
宗矩「そうです。生まれてこのかた、私は安心できる場所を常に失いながら暮らしてきたんです。大切な居場所が、失われていってさらに大切に思えました。だからこそ、探していたんですよ」
忠明「何を?」
宗矩「我が柳生家から土地を奪った豊臣を倒し、土地を取り返してくれそうな強い武将を」
忠明「・・・冗談ならもっとましなことを言え」
宗矩「ははっ、我ながら結構悪役っぽくていいと思ったんですけど・・・半分は本気でしたよ。柳生の庄を取り戻すと言う想いは強かったですから」
忠明「そして、家康様に出会ったのだな」
宗矩「殿が、家康様が会いたいと、つなぎを付けに来たのは黒田長政殿でしたね。うちのアホ親父はその時には石舟斎と名乗って、やる気の無い時期でしたから、引っ張り出すのに苦労しましたけどね・・・石だけに重いもんでね」
忠明「水に沈んだ石の舟・・・か」
宗矩「親父も老いたのだと思いました。それが、私を釣り出すための遠大な罠だったと気が付いたのは、殿に拝謁したその時でしたけどね」
忠明「なんだ、里を取り返す気概があったのではないのか?」
宗矩「ありましたよ、家族の誰かを焚き付けてやらせようって、努力していました」
忠明「・・・・・・」
宗矩「うう、その憐れむような目はやめてくださいよ。言ったでしょう、元々私は楽をして暮らしたかったんです。領地の復帰は親父か兄貴にやらせようと思っていたんですよ、思って動いていたら、家を継がせて柳生家を建て直すのは又右衛門にやらせようって、家中で結託して私をはめたんですよ!酷いでしょう!?」
忠明「・・・・・・・・・」
宗矩「ううう、ため息付かないでくださいよ。とにかく、親父と五郎右兄(宗章)と一緒に家康様に会いに行ったんです。序列的に自分はオマケだって、思っていたんです」
忠明「それが、実際は石舟斎殿はお前を家康様に推薦したわけだな」
宗矩「そうです。五郎右兄は、その時すでに小早川家に仕官が決まってるとか言って・・・兄はそんなこと一言も言っていなかったのに・・・完全にやられましたよ」
忠明「全くやる気もなく徳川に召抱えられたのか・・・その割には、入ってからは意欲的だったが」
宗矩「基本的に、前向きにヤケになる性質でしたから・・・ハメられて、それも自分への期待ゆえと思うと、なら期待以上にやってやるって気になりましてね」
忠明「それで、剣に政に精を出していたわけ、だな」
宗矩「ええ・・・まぁ、そうする気にさせてくださったのは、他ならぬ殿でしたが。側で見ていて、外から見聞きしていた徳川家康という人物と、実際は違うなと。積み重なってきた泰平への人々の意識の変化とか、武士の存在の変化とか、自分の代で決定的に泰平に傾くように動かそうと言う決意みたいなものを感じまして、自分も・・・と触発されましたね」
忠明「それで“剣禅一如”か」
宗矩「そうですね・・・一応、集大成ですね」
忠明「・・・不思議なものだ」
宗矩「何がです?」
忠明「俺とお前、進もうとする方向も何もかもが逆の、その二人が、同じ場所に居て、それぞれが立場を確立出来た事が」
宗矩「不思議でしょうか?別に、そうは思いませんけど」
忠明「そうだろうか」
宗矩「人は違って当たり前、違うとすれば運があるか、ないかだけ。我々はたまたま運がよかったんでしょう」
忠明「・・・むぅ、そんなものかもしれんな」
宗矩「ふふっ、あなたの口からそんな感傷的な言葉が聞けるとは思いませんでしたよ」
忠明「っ!こ、この饅頭と団子の甘さに酔っただけだ!」
宗矩「・・・糖分って酔うんですか」
忠明「そ、そうだ。俺はな」
宗矩「・・・まったく、最後は酔ってグダグダですか」
忠明「くっ・・・勝負、そうだ、勝負だ!柳生!!」
宗矩「嫌ですよ、私はこれから休暇で忙しくなるんですから」
忠明「うぬ、逃がさんぞ、今日という今日は!」
宗矩「・・・・・柳生の庄まで着いてくるんですか?」

忠明「で、今後は腹黒キャラに転向か?」
宗矩「何を言ってるんですか?私は善良な一兵法者ですよ」
忠明「・・・」

おしまい

本当の本当に、これにて「剣豪さんいらっしゃい」は終了です。
妄想入りまくりのコーナーでしたが、少しでも暇つぶしになったなら幸いです。
結局、どの時代であっても歴史をつむぐのは人と人の様々な関係なんだなぁ~と、歴史を調べているとしみじみ思わされます。
資料に書いていないその空白に、作家の方々は色々な思いを込めて書かれていますよね。
最近、仕事の合間にちまちま読んでいた山岡荘八先生の『徳川家康』全26巻を読了しました。山岡先生は太平洋戦争の経験者でもあり、徳川家康の作中でもその作家の背景を感じさせる文章が多く見られました。
センチメンタルなことなんですが、戦国時代と、太平洋戦争を生きた作家と、それぞれの歴史が重なってあの大作が生まれたと思うと感慨深いものがあります。

自分が歴史の空白に妄想するのは、馬鹿なことばっかりなんですが・・・がんばります。

さて、真面目な(?)コーナーはしばらくお休みして、しばらくはフリーダムで相変わらずおのやぎゅうなネタに走ろうと思います。
拍手をどうもありがとうございます。へっぽこですがよろしくお付き合いくださいませ。
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剣豪さ(略)最終章~小野忠明のまき~ 

小野忠明(1569~1628)
戦国から江戸時代にかけての剣豪。前名は御子神典膳吉明。
通称・次郎右衛門。一刀流の宗家二代目にして、小野派一刀流初代。
生まれた年には1565年説もある。
父は、御子神重。母は小野某。祖父や父と同じく里見家に仕えていたが、あるとき里見へやってきた一刀流祖・伊東一刀斎に勝負を挑み、完敗して彼に弟子入りする。
一刀斎のもとで修行を積んだ典膳は、一刀流の相伝と徳川家への仕官斡旋をかけて、兄弟子の善鬼と総州小金原(現在の千葉県松戸市小金原あたり)にて決闘を行い、善鬼に勝利した典膳が、一刀流の技術とその証である大一文字助宗(甕割り)を受け継いだ。
そして、その後典膳は徳川家康に仕官し、その嫡子・秀忠の兵法指南役に任ぜられる。
この頃、名を「小野次郎右衛門忠明」と改名したと考えられる。(寛政譜によれば家康の命だったとある)
兵法者と呼ばれる人物の中では、柳生宗矩や富田重政と並んで格のある立場になった人ではあるのだが、立場に似合わぬ物騒かつ奔放な逸話には事欠かない。
関ヶ原の戦いでは、秀忠に従い上田攻めで、攻撃しないようにと止められていたにもかかわらず、牧野勢が攻撃し始めたのを見て自分も参加。あとで怒られて真田信幸預かりで蟄居させられる。
大坂の役では、戦後に「同僚の某が逃げた」と言い、言われた同僚と大モメし、結局忠明が悪いということで閉門させられる。
他にも、「剣術道場で大暴れ事件」「道端の武芸者頭叩き割り事件」等々。性格は「傲岸不遜」だったらしい。
また、一刀流の関連書物には柳生宗矩とのエピソードが語られるが、相手の柳生の資料に忠明は出てこない。
寛永五年に没。墓は彼の知行地であった成田にある。


忠明「この期に及んで、柳生と向かい合って話をせねばならんとはな」
宗矩「まったく、殿も何を考えておられるのやら」
忠明「勝負せよと言われたほうが話が早いのにな」
宗矩「絶対しませんから。・・・ともかく、これまでやって来たようにさっさとやりましょう」
忠明「今更お前に何を語れと言うのだ」
宗矩「まぁ、見ている方々にわかるようにでしょうかね」
忠明「???」
宗矩「とにかく!これちゃんとやったら殿が褒美に羊羹やら饅頭やら追加で下さるそうですよ」
忠明「・・・よし、なんでも聞け、柳生」
宗矩「(こんなに扱いやすいのに、なんで他の人はうまく手綱取れないのかなぁ)・・・はいはい」
忠明「とりあえずは、俺の強さの秘密とか、一刀流の剣理とか」
宗矩「そうですねぇ、仕官したのに自重しない暴れっぷりの理由でもお聞きしたいですね」
忠明「おい、俺の話を・・・!」
宗矩「そういうお話は、一刀斎先生や兄弟子様方が来られた時にお話してくれたでしょう。全部、無駄にするおつもりですか?」
忠明「そ、そんなつもりはないぞ!」
宗矩「では、まずは上田攻めの折の軍令違反からお伺いしましょうか」
忠明「・・・あれは秀忠様への俺なりの気遣いだったのだ」
宗矩「気遣い、ですか・・・なんか周囲に全く伝わっていないようですが」
忠明「確かに、こちらから手を出すなと言われたが、俺は一応あそこで武功を立てて“上田七本槍”と賞賛もされていることを忘れるな」
宗矩「そう言えば、そうでしたね・・・ああ、それが」
忠明「そうだ。ただでさえ、榊原様と本多(正信)様とで意見が食い違い、大軍が上田城に釘付けのままいたずらに時を過ごしていたのだ。秀忠様は、家康様に良い知らせと共に合流したいとお考えだった。あのまま何もせず、合流予定も遅れてしまえば、秀忠様の面目も立たぬだろう」
宗矩「なるほど、忠明殿なりに秀忠様のこと、考えておられたのですね」
忠明「あの方は真面目すぎる、あまりに硬くなりすぎて、それが自分を苦しめているように見える」
宗矩「・・・よく似ていますねぇ」
忠明「?」
宗矩「真面目すぎて融通が利かない、あなたにですよ」
忠明「どこが似ているものか・・・結局、俺は指南役を降ろされた」
宗矩「大坂の役の後も、余計な事を戦の後に言われて、閉門喰らってますしねー」
忠明「俺はあの戦の折、見たのだ。真田が突撃してきた時に、奉行の奴らが戦いもせずに逃げたのを」
宗矩「でも、彼らはあなたも逃げたって言っていましたよね」
忠明「あれは・・・!馬がびっくりして・・・本当だぞ!」
宗矩「でしょうね。忠明殿がわざわざ嘘を言うわけありません」
忠明「そうだろう」
宗矩「そんな複雑な思考できるような方じゃないのはわかってますから」
忠明「なん、だと・・・?」
宗矩「それで、結局事実はわからずじまい。いらぬ亀裂と騒動を呼んだ咎で、あなただけが閉門を受けてしまった」
忠明「後悔はしていない。ただ、俺は感じたことを言ったまでだ」
宗矩「戦の後にすぐ訴え出れば、結果は違ったでしょうに。何で一年近く経ってから言い出したんです」
忠明「・・・戦後の処理で、重臣方が忙しそうだったから、落ち着いてからと思ったのだ」
宗矩「・・・つくづく、兵法以外は不器用ですよねぇ」
忠明「笑いたければ、笑うがいい」
宗矩「・・・ふふっ」
忠明「・・・っ!!」
宗矩「と、落ち着いてくださいよ。それでもですよ、それでも、問題ばかりのあなたを、秀忠様は捨てることはなかったではないですか、そのことを考えてください」
忠明「そのこと・・・」
宗矩「本当に、秀忠様が忠明殿を疎ましいと思っていたなら、蟄居の時も、閉門の時も、すぐに赦免などなさらなかったはずではありませんか?」
忠明「そう、だろうか」
宗矩「そうですとも。公には罰しなければいけなくても、その実忠明殿のことを好ましいと思っているからこそですよ」
忠明「・・・そうなのか」
宗矩「あなたの諱、忠明の忠は、秀忠様がくださったもの。それが信頼の証でしょう」
忠明「・・・ああ、そうだな俺は、小野忠明だ」
宗矩「そうです、そうです、良いことではないですか」
忠明「・・・今度、登城した時、一刀流の稽古は気合をいれてご教授することにしよう」
宗矩「いや、それはホドホドにしたほうが」
忠明「だって、俺にはこれしかないぞ」
宗矩「・・・・・・秀忠様には頑張っていただくように説明しておきます」

忠明「・・・」
宗矩「お、嬉しそうになりましたね」
忠明「うるさい、次は俺が聞く番だから覚悟しておくのだな!」
宗矩「はいはい」

つづく

すいません。最後におのやぎゅということで。
今までも散々、剣豪紹介と言いながら、ついでに好きな小野と柳生の会話ばかりをさせていたわけですが。
小野忠明の経歴に関しては、里見家臣時代の活躍にも、年代的に怪しげな部分があったり、忠明自身の生まれた年もよくわからないと言ういい加減な所がありますね。
しかし、彼の起こした騒動、興した流派は本物だと思っています。
政治も剣もいける、ノブヤボだとオールマイティな能力値がありがたい柳生宗矩と、剣術以外はからっきしという潔い能力の小野忠明・・・徳川家康は二人が真逆と狙って召抱えたように思えてなりません。

そんなわけで、オマケの蛇足は続きます。
※いままでの紹介も自分の独断と偏見が入ってますが、これと最後も妄想ダダ漏れです。どうぞ、実際の人物はこんなではないのでご注意ください・・・すいません、本当に。

拍手、いつもありがとうございます。サイトのほうも覗いてくださってありがとうございます。なるべく更新して行こうと思っておりますのでよろしくお願いします。

剣豪さ(略)特別編~徳川家康のまき~ 

徳川家康(1542~1616)
三河の松平氏、広忠の息子。通称・次郎三郎。
徳川幕府を開き、約250年にわたる江戸時代の基礎を開いた、学校の歴史の授業でもテストに必ず出てくる歴史上の人物である。略歴および後世の評価など詳しい解説はwiki先生にお譲りします。
一般的には「太ってた・タヌキじじい・慎重」といったイメージがあるが、若い頃は家臣が止めるのも聞かずに戦場に飛び出していったり、すぐ怒ったりとアクティブな姿を見ることが出来る。あと三方ヶ原の戦いのあと自分を描かせた「しかみ像」はやせている。よくよく考えると、関ヶ原の戦いでも大坂の役でもわりと行動的。
家康はまた、兵法(戦略のことではなく、日本の剣術をはじめとする武術のこと)を多く学んでいる。
・馬術は大坪流を学ぶ。大久保彦左衛門は、三方ヶ原での逃げっぷりはすさまじく速かったと語る。
・弓術も三方ヶ原の戦いで撤退する時におおいに役に立ったとか。
・水術(水泳)も、若い頃から水泳を好み連日川で泳いでいたので、家臣の誰もかなわなかったほどだとか。
・鉄砲術は、五・六十間先の櫓の上にとまる鶴を鉄砲で撃ち落す程度の腕前。鉄砲の名手である外記流の井上正継を召抱えている。
・剣術は、松岡則方に新当流を。奥山公重に奥山流(新陰流)を学ぶ。
ただし、剣術に関してはどれほどの技量であったか、人を斬ったなどの明確な資料はないため、実力の程はわかりかねるが、様々な武芸を学んでいたことがわかる。

※絵の中の「うえをみな」「みのほどを知れ」とは家康による儒教に基づく五字と七字の教訓である。意味合いとしては「上昇志向ばっかりじゃなくて、自分の能力や身分をわきまえよう」というところか。


家康「よいか?体重が重いことは別に兵法上悪いことでもなんでもなかろうが」
忠明「具体的に、利点は?」
宗矩「じゅ、重心が安定しますし、質量があるということは技を出す時も力が生まれますからねっ!」
家康「そう、そう言う事じゃ!それに、幅のある体格は施政者としての威厳も生み出す上に、丸い体は愛らしさもかもし出すのよ、無駄食いしてぶくぶく太ったわけではないのだぞ」
忠明「・・・なるほど、さすが殿。状況に合わせて体型まで変化させると」
家康「う、うん、すごいだろう?」
宗矩「我らには真似できませんね、ほんと、ははは」
忠明「まぁ、太ろうとしても体動かしているとそうそう太れないしな」
宗矩「ちょっ・・・!」
家康「おのれ・・・次郎右衛門!!」
宗矩「わー!殿っ、なぜ着物をはだけられるのです!?」
家康「この腹とか腕とか触ってみるがいい!!」
忠明「失礼して・・・む、やわらかいかと思いきや、しっかりしていますね」
家康「どうじゃ!これは無駄な脂肪ではない、相撲取りと同じ筋肉なのだ!これで文句なかろう」
忠明「わかりました。無礼な言動お許し願いたい」
宗矩(ここまでしつこく説明されると、なんだか言い訳がましく聞こえるけど・・・)
家康「又右衛門も わ か っ た な ?」
宗矩「よっ、よくわかりましてございます!」
忠明「それにしても、殿は体を動かすのがお好きですな」
家康「健康も維持できて、戦う術も学べてよいな」
宗矩「兵法はお若い頃から学ばれておられるようですね」
家康「うむ。新当流は有馬満盛にも師事しておるしの」
忠明「奥山殿には姉川の戦いの後に師事されておりますな」
宗矩「うちの親父の前にも、新陰流を学ばれていたのですね」
家康「新当流は、今川義元殿の元に居た頃も目にすることがあったし、休賀斎の腕前は姉川で実証済みだし、やはりその強さを目の当たりにすると学びたくなってな」
忠明「兵法はそもそも戦で戦うための手段をまとめたものですから、学んでおいて損はないですね」
宗矩「有馬殿、奥山殿と殿ご自身が学ばれる為に師事したわけですね」
家康「うむ、戦を指揮する大将が弱くてはお話にならぬしな」
忠明「柳生宗厳殿に師事した頃は、なにか、殿の兵法観も変わって来られたように感じられるのだが・・・」
宗矩「疋田様の剣を見て『匹夫の剣』とおっしゃったのもこの頃のことですね」
家康「いろいろな流派を学ぶうちに、自得することがあってのぅ」
忠明「ふむ、気になりますな」
宗矩「自得されたこと・・・」
家康「おぬしらに問う。兵法の奥義とは、なんであろうな?」
忠明「一刀流の源流である中条流では、一生刀を抜かぬのがよいと・・・師もそう言っておられました」
宗矩「上泉信綱様も、進退極まったとき、一回役に立てば上等です。と語っておられます」
家康「そうじゃ。不思議じゃなぁ。戦うための法が兵法であるならば、それを使わぬのが良いとはどういう意味なのであろうな?わしはそれを考えていたのだ」
忠明「・・・弱いほど武器を振り回す、無益な殺生を重ねると考えます」
家康「ふむ、どうしてかな」
忠明「相手の強さも、己の力も測れぬから、でしょう。測れねば恐怖し、いたずらに我が身と相手を損じると」
家康「うむ、未熟では心にゆとりが生まれぬわけじゃな」
宗矩「それに、戦も立ち合いも、そこには力押しだけではない心のかけひきがございます。兵法からそういった大きな視点での考え方を学べる手法として確立されてきた・・・いえ、そうすべきと殿もお考えになられたのでは?」
家康「ふふ、それに乗っかったのが、他ならぬ又右衛門であるしな。剣禅一致の手法をなぁ」
宗矩「ははは、恐れ入ります」
家康「刀は武士の魂、という言葉もある。であるならば、魂をみがくのに兵法ほどふさわしいものもあるまい」
忠明「うむ、筋が通っている」
宗矩「さすが殿、上手いこと言いましたねぇ」
忠明「最初にこの言葉を持って来ればよかったな」
家康「・・・おぬしら、秀忠にもその調子の打ち込みなのか?」
忠明「俺は誰にも手加減はしません・・・が、秀忠様には恩もありますし、それなりに気は遣っております」
宗矩「(あれで遣ってたんだ・・・)私は、殿だからこそ、安堵して強く打ち込んでおります」
家康「・・・とにかく、わしも幕府を開くにあたり、武器である刀を武士の魂という象徴とし、さらに兵法は心身を鍛える手段として根付かせたいと考えた。その上で、次郎右衛門と又右衛門を召抱えたと言うわけだ」
宗矩「責任重大ですね」
忠明「やりがいがあるな」
家康「いつまでも、武士は戦って首を取るのが仕事では、乱世が終わらぬしなぁ」
宗矩「鎌倉の頃から、少しづつ培われてきた兵法のあり方が、ここへ来て実を結ぶような気が致します」
忠明「だからと言って、武士がふ抜けてはいかん。だからこそ、俺は兵法に手は抜かぬぞ」
家康「うむ、やるからには手抜かりなく、全力で挑まねばのぅ」

家康「さて、長い間、様々な兵法者への聴き取り、ご苦労であったな」
忠明「たいして疲れておりません。勝負できなかったのが悔いですが」
宗矩「私も様々なことを学ばせていただき、このような機会を設けていただけたこと感謝しております」
家康「そうかそうか、それはよかった・・・では、最後の仕事をな」
忠明「む?」
宗矩「え?」

蛇足に続く


武芸を磨くこと自体は、家康だけでなくどの戦国大名も行っていたことです。
注目すべきは、家康に兵法指南役として雇われた兵法者達。徳川が天下を取ったこともあるのでしょうが、彼らの話は特に目立って残されていると思います。
家康自身が学んだ剣豪、指南役として付けられた、性質の違った小野と柳生という剣豪、いろいろと考えながら上記の対話を妄想してみました。

そんなわけで、長い間お疲れ様でした。
最後の蛇足はおまけ程度のお話です。

剣豪さ(略)特別編~徳川義直のまき~ 

徳川義直(1600~1650)
家康の九男。
武芸に通じた父と同じく、新陰流宗家三代・柳生利厳を雇って彼に師事した。兵法者としての素養も持ち合わせていたようで、後に利厳より新陰流宗家四代目を継承している。
また、利厳のほかにも、行覚流(槍術)の田辺長常・制剛流(柔術と居合)の梶原直景、ほか鉄砲、弓術など様々な武芸者を積極的に迎え入れている。
義直の特徴と言えば「尊皇思想」である。彼の自著『軍書合鑑』には「王命(天皇)によって催さるる事、すなわち、保元・平治・承久・元弘の乱のごとき兵乱が起き、官兵が動員さるる事態になれば、いつでもこの官軍に属すべし。一門のよしみを考慮し、かりにも朝廷へ弓を引くべからず」と記していることからもその精神が伺えるだろう。
この考えは、徳川光圀や幕末の尾張藩士達に影響を与えた。
家光とは性格上合わなかったのか、会えば衝突することが多かったと言う。


義直「では、よろしく頼むぞ」
宗矩「え・・・あの、尾張公?」
義直「ん?」
宗矩「なぜ、たすきをかけておられるので?」
義直「なぜって、準備だが」
忠明「袋しないまで持ち出したぞ」
義直「一刀流は木刀であったな。わしはそれでも一向構わんぞ」
宗矩「どうも話がかみ合わない(というか、嫌な予感しかしないが)・・・つかぬことをお伺いしますが」
忠明「伺わなくても、これは立ち合う気だろう」
義直「そうだが?そういうつもりで呼んでくれたのだろう?」
宗矩「・・・・・・え」
忠明「さすが、新陰流宗家四代。相手にとって不足はない」
義直「ふふふ、わしも音に聞こえた一刀流の“切り落とし”味わってみたいぞ」
宗矩「違います!違います尾張公!!兵法にまつわるお話を伺いたいと言う趣向の場でしてっ!」
忠明「今回だけ特別に試合でもいいだろう、特別編だけに」
宗矩「全っ然上手くありませんから、それ。免許皆伝同士が本気出したら危ないでしょう!他にも色々問題がありすぎます!ここは抑えて下さらないと、お二人とも」
義直「・・・ふむ、問答での立ち合いでも構わぬぞ。将軍家指南役と争っては、わしの立場も危ういしな」
宗矩「ご理解いただいて恐縮です」
忠明「ちっ、つまらん」
義直「ま、ここは柳生の顔を立てておくとしよう」
宗矩「・・・ははは」
忠明「しかし、大名で兵法の流派の宗家を継ぐというのは、並大抵のことではないと思うな」
宗矩「ですよね。様々な職務をこなす合間に、どう修練を積むとそこまでの境地に達せるのやら」
義直「何でも突き詰めないと気が済まないタチでな」
宗矩「・・・ここに、尾張公の日々の暮らしを記した本があるのでご覧頂きましょう」

近松茂矩著・『昔咄』より
~源敬公(義直没後の贈名)の一年~
・毎朝未明にお目覚め。
・明かりをつけて自分で髪を整える。
・4月~7月まで毎朝鉄砲の修錬。お側の者もやる。
・朝ごはんの後には諸事を聞く。
・その後に学問の時間
・若い頃には毎日兵法修行(剣や槍)を行う。
・夕食後に、弓の稽古。続いて馬術の稽古。
・弓馬の達人になり、流鏑馬はよく行った。
・一時的な武道ではなく、常に戦場にいる気持ちで武芸に励んでいた。

宗矩「この近松という者は、もっと先の人なんですがね」
忠明「また時空を狂わせる資料だな・・・」
義直「おおむねこの通りだな」
忠明「随分、武芸に時間を割いているのだな」
宗矩「さすがと言いましょうか、ここに政の時間も入れたらかなり厳しい時間割ですね」
義直「人に厳しく当たるには、まず己から律しなければいかん」
宗矩「それと、この本の続きを見てみましょう」

『~源敬様、つねづね、我れ倹約をするは人馬をよく持ち、武具馬具を備え、家中の者どもに武芸をさせ、出陣の用意怠らず、不慮の急変にさしつかえなからしめんがために、無用の費えをいとい、無益の遊びを禁じて勘略(財政管理)をするなりと、御意たびたびありし由~』

忠明「ようするに、武芸奨励した上、倹約もしたと」
宗矩「本当に、家康公の行われたことと同じですね」
義直「うむ、父上は我が人生の師であるからのぅ」
忠明「確か、兵庫助殿を雇った時も、値切ったとか」
宗矩「違います!兵助は福島家より二千石で召抱えるとの打診をいただき、断っていたのです」
義直「で、わしが『五百石でウチへ来ぬか?』と誘って見事射止めたのだよ」
忠明「・・・工事の入札みたいだな」
宗矩「あんたも負けずにメタネタを・・・ともあれ、兵法に真っ直ぐな兵助らしい仕官の仕方でしょう。録の高さではなかったのですよ」
義直「そう、会って話をしたとき、お互いウマが合ったと言うのが大きい。兵庫助はわしの良き師であり、側近でもあった。得がたい人物だよ」
忠明「よき理解者とめぐり合えるかも、兵法者が安定した生活をするには必要な事だな」
宗矩「ええ。ですから、我々も兵助も、この冥加に感謝し精進せねばなりませんね」

家光「やった!脱出できたぞ次郎右衛門!」
宗矩「う、上様(うわー)」
忠明「む、思ったよりも早かったですな」
家光「ふふふ、日頃兵法の修錬はかかしておらぬからな!早く出たら一刀流の技を見せてくれる約束だったな!」
忠明「いいでしょう」
家光「よしっ!では・・・・・・む、これは尾張殿」
宗矩(気付いた・・・)
義直「これはこれは、上様にはご機嫌うるわしゅう」
家光「うむ、例の兵法者への聴き取りという奴だな。大儀であった、さがって休まれるがよろしい」
宗矩(大丈夫かなぁ・・・)
義直「・・・ふふ、上様、お互い得がたき家臣は大切にしませぬとな」
家光「そうじゃの、お身の申す通りだの」
義直「では、またいずれ」
宗矩「・・・上様」
家光「余も、いつまでも駄々っ子ではおれぬよ」
宗矩「上様っ・・・!」
家光「それはそうと、なぁなぁ、次郎右衛門も指南役に再任せぬか?一刀流も習いたいぞ」
忠明「新陰流も極めぬうちに何をおっしゃるのか、ダメです」
家光「えーーー、まだダメか?つまらんのう」
宗矩「・・・先は流そうだなぁ」

つづく

尾張の義直公でした。
「名古屋の人がけちである」というのは義直がケチだったからという説があるんだそうです。
家康も倹約家でしたし、お父さんの行いと同じだなぁと思いました。兵法に熱心な部分も含めて。

というわけで、ラストは徳川家康です。
来週中には上げますので、相変わらずゆるい更新なのでゆっくりお待ちください。
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剣豪さ(略)特別編~植村家政のまき~ 

植村家政(1589~1560)
徳川家の家臣・植村家次の息子。大和高取藩主。
通称は新六郎。
慶長四年(1599)10月、体調が悪化していた父に代わり家督を継ぐ。(11月に父が死去。)
徳川秀忠に小姓として付くこととなる。(この時点での知行は五百石)
慶長十三年(1608)、御徒頭(歩兵の下級武士集団のトップ)に任じられる。また、従五位下と志摩守を賜る。
慶長十九年(1614)~慶長二十年(1615)の大坂の役では、武功により千石加増。出羽守任官。(千五百石)
三代将軍・徳川家光の世になると、大番頭(旗本で編成された常備兵力のトップ)に任じられ三千五百石加増。(四千石)
寛永十年(1625)には四千石を加増される。(九千石)
寛永十四年(1637)に大和高遠の本多政武(徳川家臣の本多氏とは縁はない。元豊臣秀長家臣の家柄である)が嫡子なく死去した為、空席となった大和高遠の藩主に抜擢される。そして、一万六千石加増され、ここに二万五千石の大名・植村家政が誕生する。
慶安三年(1650)没、62歳。この後、植村氏は明治維新まで続く。


忠明「まて、経歴を見ると、泣ける話ではないではないか。むしろいい話だろう」
宗矩「後半の加増されっぷりは、すごいですよねぇ」
家政「曽祖父からの因縁と、苦難を思うと・・・出来すぎですね」
忠明「植村家は、新参の俺たちよりも古くから徳川家に仕えているのだから、当然と言う気もするが」
宗矩「苦労されたのなら、それを評価されての加増ではないですか」
家政「そ、そうでしょうか」
忠明「謙遜は時に美徳とも言えんぞ」
宗矩「せっかくですから、植村家のご苦労をお話いただけませんか?差し支えなければですが」
家政「・・・それでは、一曲お聞きください」
忠明&宗矩「一曲・・・?」

~植村家はつらいよ・植村家テーマソング~

わたくし 生まれも育ちも 三州三河です。
遠州灘で産湯を使い 姓は植村 名は新六郎
人呼んで 植村氏明と発します

殿の警護は 俺にまかせろ
鞍馬の剣のするどさよ
いつも離れぬ主君の側を
清康公を守るため
奮闘努力の甲斐もなく
森山崩れ
森山崩れて 日が落ちる
日が落ちる

(間奏・続きまして、氏明の子、植村家存参ります) 

主君守れぬ父の無念を
晴らすと心に誓い立て
意地を張りつつ涙も見せぬ
三河武士の心意気
若き主君を守らんと
太刀をたずさえ
我が身一つの 限り知る
限り知る

漢というもの辛いもの
顔は怒って 
顔で怒って腹で泣く 腹で泣く

(セリフ・植村家次)
信康公が腹を召し 主家を飛び出し西へ東へ
今また舞い戻り みなみなさまにご厄介かけがちな若造です
以後見苦しきこの身 お見知りおかれまして
恐惶万端引き立って よろしくおたの申します

家政「・・・と、このような次第でございます」
忠明「曲調は明るいが、物悲しさを感じさせる歌だ・・・」
宗矩「そうですね(遠州灘の産湯はどうかと思うけど・・・突っ込みはよそう)」
家政「なんと申しますか、発端はやはり清康公が乱心した阿部正豊に斬られ落命した森山崩れですね」
忠明「氏明殿は、鞍馬流を使われるのか」
宗矩「京流の一つですね。確か、流祖は源義経公に剣を教えたという鬼一法眼殿とか」
家政「はい。相当の使い手だったそうです。それだけに、乱心者から主君を守れなかったことが大きな悔いだったのだと思います」
忠明「状況はわからないが、主君が斬りつけられたあと、すぐに応戦して下手人を討ち取っているのだな」
宗矩「襲われるのを阻止できなかったのは、さぞかし無念でしょうね」
家政「ええ。名君と言われた清康公が亡くなられると、松平家は苦境に立たされることになりますし、曽祖父も祖父もいっそう、主家を支えようと身を削られたと思います」
宗矩「氏明殿は沓掛での織田軍との戦で戦死なさって、ご子息の家政殿が家督を継ぐんですね」
忠明「家政?家存殿の前名は、同じなのだな」
家政「はい、勇敢な祖父の名前を継がせていただきました。曽祖父直伝の刀と槍の腕前に、織田信長の前でも若き家康公をお守りするため太刀を持ちお側に従った忠義のお方です」
宗矩「家存殿というと、家康公のお父君・広忠様暗殺の件で下手人を討ち取られたと聞きますが」
忠明「親子二代でそんな場にでくわしたのか?」
家政「そのようです・・・しかも、どちらも守れずです。だからこそ、二度とそのような事態をおこすまいとして、祖父・家政は家康公の側についていたのでしょう」
宗矩「その後、家存殿は若くしてお亡くなりに、お父上の家次殿も松平信康公の一件で、出奔されてしまわれた」
忠明「みな、主君がらみの苦難続きか」
家政「はい。それで父も流浪中様々な世の様子を見聞し、逃げることをやめ、徳川のために再度出直そうと考え、徳川家三傑のお一人、榊原康政様に口ぞえを頼み、徳川家臣として復帰したのです」
宗矩「なるほど、榊原様は、家存殿の没後にそのお仕事を引き継いでおられた方ですからね」
忠明「それに、情に厚い方だと聞くし」
家政「はい。徳川帰参まで、知行やら屋敷やらお世話くださって」
宗矩「けれど、せっかく帰参がかなったのに、家次殿もすぐに亡くなってしまわれたのですね」
忠明「心労がかさんだせいだろうか」
家政「そうだと思います。私も10歳で家督を継ぐことになりましたが、踏ん張らねばと心を励ましてお仕え致しました」
忠明「そういえば、家次殿は兵法はどうだったのだろうか?」
家政「祖父から手ほどきは受けていたようですが、途中で祖父が亡くなったので、京流は中途でした。信康公のお側にいる間に、研鑽を重ねていたようですし、自分も曽祖父の代からの武勇を損なわないよう、秀忠さまのご指南役であるお二人にはお世話になりました!」
宗矩「いやいや、私もよい友人にめぐり合えてよかったです」
忠明「俺はすぐにクビになったから、そんなに世話はしてないがな・・・」
家政「そ、そんなこと・・・関ヶ原でも大坂でも、忠明殿がんばっておられましたよ!?秀忠様だって、周囲に言われて仕方なくで、それに、忠明殿は強くてお可愛らしくて自分は好きですよ!!」

宗矩(な、なんつーことを!忠明殿が激怒して襲い掛かったら、俺が止めるしかないよ!?やだなぁ)
忠明「うう・・・」
家政「兵法に一心に努力なさるお姿、秀忠様もご理解なさっていたからこそ、改易などされなかったのです、私は秀忠様の小姓をしておりましたから、わかっております」
忠明「そ、そうか、そうなのか・・・だが、かわいいとか、そういう発言は困る」
宗矩(・・・デレた。純粋に褒められると弱いのか。この真っ直ぐさに家光様もコロッと行った・・・んじゃないだろうな・・・)

つづく

ざっと植村家でした。
引き続き剣術にかこつけてもはや別の話題です。
植村家政さん、急激に加増を受けた為、大名になった時には家臣が不足しており、赴任地に向かう途中、求人しながら向かったと言う話があります。
また、家光が品川で馬揃えを行った時は、美々しい晴れ姿で家光から褒美をもらったこともあるそうです。
柳生宗矩と友達だったという説がありますが、信憑性はありません。
ただ、個人的に秀忠つながりで面識が出来て茶のみ友達になっていたらいいなぁという願望で上記の流れになっています。


ぼやく時間はあれど、しっかりじっくり記事を書く時間がめっきりとれなくなり、更新がおろそかになり申し訳ありません。
残るは、尾張殿、しかみ像では痩せていたのに・・・な方のお二人です。
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剣豪さ(略)特別編~大久保忠教のまき~ 

大久保忠教(1560~1639)
徳川家臣・大久保一族の一人。父は大久保忠員。末っ子で、上に忠世・忠佐ら兄が7人いる。
通称・彦左衛門で、「天下のご意見番」として江戸時代から現在まで親しまれている人物である。
17歳で初陣してデビュー。その後、兄たちと共に戦い、天正十八年(1590)の小田原攻めの後、徳川家が関東に領地換えとなると、兄・忠世とその息子忠隣親子が小田原城に入り、彦左衛門も三千石を与えらている。
関ヶ原の戦いでは槍奉行を務めたりしているが、大坂の役の後、安定していく世情の中で武功だけで立身してきた彦左衛門は、いわゆる官僚タイプの武士が立身出世していく中で持ち前の頑固さと偏屈さを発揮して様々なトラブル、もとい逸話を残していく。その一方で、大坂の役以降に増加した浪人を自分の屋敷に住まわせて世話したりといった一面も見せている。
自身の著した『三河物語』は徳川・大久保贔屓の記述が目立つものの、当時の資料としては良質なものとして現在まで読み継がれている。
講談などでも活躍し、家光の時代にタライに乗って登城したり、一心太助と組んで暴れたりしている。
「天下のご意見番」とは、民衆や武功派の武士たちからめんどくさがられつつも愛された彦左衛門への親しみを込めた呼び名なのかもしれない。


宗矩「・・・鎧を着込んで来なかっただけマシか」
忠明「グチグチと五月蝿いぞ彦左。こぼしたいだけなら帰っていいぞ」
忠教「おっとと、こりゃすまん。つい、いつものクセでな」
宗矩「相変わらず淀みない語り口ですねぇ(内容はともかく)」
忠明「香具師にでも転職したらどうだ」
忠教「何を言うか!由緒ある大久保家の一員たるこのわしが、物売りなぞ」
宗矩「大久保家って、みなさん忠教殿みたいなんですか?」
忠明「一人だけで充分だろう」
忠教「そんなわけなかろう!兄者たちはわしなどよりもずーっと立派な方々じゃ!七郎兄(忠世)の息子の忠隣殿もよき士であった・・・あの、本多の正信めの陰謀によって失脚しなければ・・・」
宗矩「・・・あああ、話がそれる」
忠明「だいたい、剣豪に関連する人選のはずが、なんで彦左が来るのだ」
忠教「フフン!教えてやろう、我が大久保一族の起こりをな!」
宗矩「そんなに遡る話なんだ・・・」
忠明「ほう、どんな話だ」

我が大久保家は、元は関東の宇都宮氏の一族であった。
そして、ご先祖は新田義貞公にお味方し戦った。
そう!我らが家康様の徳川家の祖であられる義貞公の!
宇都宮泰藤という方が、関東から三河に移りここに大久保氏の原型が出来上がるのだ。
その頃は「宇津氏」と名乗っておったそうだ。
徳川家とのゆかりはこのように深いものなのである。
さて、時は流れ忠茂お爺様の時代、松平清康公(家康様のお爺様じゃな)の御世に、
お爺様は山中城攻めで功をなし、その後清康公に信を得ていくのである!
そのお爺様には二人の息子がおった。
忠俊叔父上と、我が父・忠員じゃ。
兄である忠俊叔父上は武勇で知られた勇敢なお方でな、あるとき叔父上の所に一人の武芸者が現れた。
その者の名は『大窪藤五郎』、越前のあたりからやって来たと言う。
かの人には家族もなく、このままでは「大窪」の名籍が絶えてしまうため名を継ぐに足る人物を捜して歩いていたそうだ。
旅の途中、忠俊叔父上の武勇を聞きやってきたと言うことじゃな。
藤五郎殿は忠俊叔父上と共に過ごすうちに「これぞ、我が苗字を譲るに足るお方!」と見極め、その旨を告げた。
最初、叔父上は困惑したと言うが清康様の勧めもあり「大窪」を「大久保」と変えて名乗り始めたのだ。
ここに!武勇に優れた我ら「大久保党」が誕生するのである!!

忠教「・・・と、言うわけじゃ。どうだ」
宗矩「どうだ、と言われても」
忠明「どこが剣豪の話だ。ただの大久保伝ではないか」
忠教「ちゃんとあるだろ!」
宗矩「・・・ええと、まさかこの大窪藤五郎殿?」
忠明「旅の武芸者か。情報が薄すぎるな」
宗矩「ですよね、流派がなにとかせめてそれくらいは」
忠教「知らん」
宗矩「ええー・・・こんな情報だけで出てこられても」
忠明「越前から来たのであれば、中条流かもしれんな」
宗矩「ああ、そうかもしれませんね」
忠教「ほう、そうなのか」
宗矩「・・・」
忠明「・・・」
忠教「なんじゃ、話が弾まんなぁ」
宗矩「あんたが持ってくるネタが貧相だからですよ・・・」
忠教「ぬぬぅ、あとは、次郎右衛門との対決くらいしかないな」
忠明「ああ、徳川に仕官が決まったあとで家康公に目通りした時に勝負したあれか」
宗矩「小幡景憲殿と忠教殿二人でかかってあっさり負けたっていう奴ですね」
忠教「あっさりと言うな!それなりに頑張ったぞ!」
忠明「ま、声だけはよく出ていたな。小幡より」
忠教「おのれ、武士の本領は戦で発揮されるのじゃ!武勲ならお主に遅れを取らんわ!!」
宗矩「そうですね、大坂の役のあと忠教殿は、真田の突撃に家康公の馬印が倒れたとかそうでないとか論争になったときに、怒る家康公に『馬印は確かに立っており申した!』と一人主張されて、家康公の面目を守り、あとでお褒めの言葉と品を頂いておりますもんね。同僚が逃げたとか言い出して論争になった挙句に閉門喰らったどこかの方と違って」
忠明「ぐっ・・・」
忠教「ふっふっふ、そこではわしの勝ちじゃな!」
宗矩(武功派の人って、やけに勝ち負けハッキリ付けたがるよなぁ)
忠明「フン!俺は剣術一筋に生きているから別に良いのだ!」
宗矩「あー、スネちゃって」
忠教「大人気ないのぅ」
宗矩「お互いに・・・ね」

宗矩「そういえば、忠教殿は本を書かれているのだとか」
忠教「う、まぁな」
忠明「らしくないことをしているな」
忠教「こう見えても、源氏絵巻物を写したりして、文才も養っておったのだぞ」
宗矩「ねぇ、書きかけでいいですから、見せてくださいませんか」
忠教「だめじゃ、だめじゃ!門外不出である!!」
忠明「ふん、けち」
忠教「なにをー!!」
宗矩「ふぅ、やれやれ・・・」

つづく

大久保彦左衛門が描きたかったので。
大久保家の由来の話は、これが確かなものではありません。
家康の先祖が新田義貞と言うのもマユツバもんですし、それに合わせて大久保家の由来の話も創られているとも考えられますね。
正直、大窪藤五郎に関しては「武芸者」であり詳細がまったく不明の為なんとも言えません。
なんで由緒ある「宇津」を捨ててまでふらっとやってきた旅の武芸者の苗字を貰って改名したのか?その辺も不思議です。よほどウマがあったのか、他に何か理由があったのか・・・

しかし、講談での彦左衛門のはっちゃけぶりは痛快なものがあります。興味のある方は検索してみると、色々と面白い記事を発見できるかと思います。

さて、次回は家臣その2です。
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剣豪さ(略)特別編~徳川家光のまき~ 

徳川家光(1604~1651)
徳川幕府の三代目征夷大将軍。父は二代将軍秀忠。母は浅井三姉妹の三女・江。ちなみに、次男である。(長男は早世している)
義務教育の歴史の教科書では、父よりもその業績の面で紙面を多く割かれていることが多い。
元和九年(1623)に将軍宣下を受けたが、大御所となった秀忠もなお権力は持っており、秀忠存命中はいわゆる二元政治が続いていた。主に在位中(秀忠没後)に行われたものは、「老中や大目付の仕組みを設置」「大名の参勤交代を義務化」「鎖国実施」などであろう。
家康~家光までの権力をフルに使った強気な政治は「武断政治」と呼ばれている。テストに出るから覚えておこう。
また、熱烈な権現様(家康死後の神としての称号)ファンでもあったそうで、日光東照宮の造営には百万両という大金を使いこれが江戸幕府の財政難の発端となったという説まである。
お忍びで城の外に出ることを好み、重臣たちの頭を悩ませた。さらに、遠乗りでは一人で駆け出したり、鷹狩が好きで気軽に民家に立ち寄りすぎたりしてさらなる頭痛を家臣たちに与えることもあった。
幼い頃から体が弱く、寝込むこともしばしなあったという。1650年に病死。


家光「ふふふ、この時を楽しみにし・・・って何でお主ら急に老けておるのだっ!?」
宗矩「はて、上様にはこの姿が最も親しまれておられると思い」
忠明「以下同文」
家光「え、ええい、なんじゃ!よ、余が来ては面倒だと言うのか!」
宗矩「さぁ、それは」
忠明「兵法下手の横好きが、突然出てきてもな」
家光「・・・ふ、ふふふ・・・相変わらずお主らの態度は笑えるのう・・・まったく笑える」
宗矩「はっはっは、それはようございますな」
忠明「で、兵法数寄ということでお出ましなのだろう。何を話されるのだ」
家光「えっ、ああ、うん・・・そうだな」
忠明「早くなされよ。まさか、何も考えずに勢いだけで出てきたのではないでしょうな」
家光「そ、そ、そんなことは、ないっ!今言うところだから黙っておれ!」
宗矩(忠明殿は無敵だな・・・いっそ清々しい尊大さだ)
家光「そ、そうだ。寛永御前試合についてだ!なぁ、こいつをどう思う?」
宗矩「面倒でしたな」
忠明「そんなもの知るか!!」
家光「なんで怒るのだ!格好の話題ではないかっ!」
忠明「俺が死んだあとにそんな楽しいことをやっているとは・・・俺へのあてつけか何かか!?」
宗矩「忠常殿と相談してちゃんとやりましたよ」
忠明「おのれ、俺が壮健な時に企画すればよいものを・・・」
家光「フフン、病に負けてしまうからいかんのだ」
忠明「くっ・・・!」
宗矩「なんの話かわからないという紳士淑女の皆様に、概要と取り組み一覧をお教えしておきましょう」

開催日:寛永9年(1632)、9月22日
開催場所:江戸城 武術御撰広芝
試合取り組み表(敬称略)

伊庭如水軒○ 対 浅山一伝斎×
竹内加賀之助○ 対 由井直人×
佐川蟠竜斉○ 対 関口柔心×
大久保彦左衛門○ 対 加賀爪甲斐守× ※鎧勝負
荒木又右衛門 対 宮本伊織 (引き分け)
初鹿野伝右衛門○ 対 朝比奈弥太郎× ※鎧勝負
伊達政宗○ 対 秋元但馬守×
柳生市之丞○ 対 石川又四郎×
石川軍東斉○ 対 松前帯刀×
樋口十郎兵衛門定勝 対 中条五兵衛 (引き分け)
羽賀井一心斎 対 難波一刀斉 (引き分け)

家光「む、他にもやった気がするが」
宗矩「とりあえず一例と言うことで」
忠明「色物試合ばっかりだな」
宗矩「そういうこと言わない」
家光「ふふふ、当代のツワモノをそろえての試合だ!胸が熱くなるだろう」
忠明「仙台黄門殿はこういう所にも顔を突っ込むのだな」
宗矩「まぁ、あの方もこういう馬鹿騒ぎがお好きですから・・・頼んでも居ないのに勝手にねじ込みに来ましてね、秋元殿には申し訳ないことを」
家光「仙台の爺は覇気があってよかったな!色々と試合内容にも助言をくれたし」
忠明「・・・面倒なことだな」
宗矩「ええ・・・忠常殿とはかなり真面目な試合を組んでいたのですが・・・横から茶々が入ったらこの有様」
忠明「書いてない取り組みに、日置流と神道流棒術の試合なんてものまであるしな」
宗矩「や、私たちが付いていながらお恥ずかしい」
家光「弓と棒、夢の対決だな!」
忠明「夢想の産物、という点では間違っていないな」
宗矩「面白いと言えば面白いものではありましたが」
家光「戦であればこんな勝負は見られぬからな。それだけ世が泰平になったという表れであろう?」
忠明「彦左も出ているのか、さぞかし喜んだろうな」
宗矩「・・・ええ、まぁ。『宗矩殿も勝負するのじゃ!』とかって家に鎧着たまま押しかけてきた時はさすがに引きましたけど」
忠明「俺には小幡込で勝負して負けたからなぁ」
家光「忠明は強すぎてこの試合に出た全員に勝ってしまうだろうな」
宗矩「そうでしょうねぇ・・・」
忠明「当然だ。伊達だろうとなんだろうと倒してやる」
家光「・・・」
宗矩「・・・」
家光「見たかったなぁ~」
宗矩「想像したくもねぇ・・・」

家光「と、とにかく、だ。武門の漢(おとこ)たるもの、有事に備えて武芸を奨励することも大切である!ということを外に示したのだぞ、決して自分の欲求を満たす為だけではないのだぞ」
宗矩「ええ、わ か っ て お り ま す とも」
家光「・・・目が笑ってない、但馬」
忠明「だから、俺が生きているうちにやれ!!」
家光「ウウッ、し、しつこいぞっ」

つづく

一応、新陰流の印可はもらってるよ!な、家光くんでした。
柳生宗矩は剣術の師匠ですが、小野忠明は秀忠の代で騒ぎを起こして指南役から降ろされているので(閉門されてそのまま指南役続けてられるわけもない)、あってもたまに呼び出されて型を見せるくらいだったんじゃないかと思われます。
名君なのか、凡庸なのかで今でも意見の分かれる将軍です。しかし、土井利勝や酒井忠勝や酒井忠世、松平信綱や阿部忠秋なんていう、有能だけど当然クセもあるであろう人材をまとめて、幕府の機能をしっかりと動かせているのはたいしたもんだと思います。
奥さんと超険悪だったり、衆道にハマっていたりとネタも事欠かないですし。
さて、家光が行ったと言う、『寛永御前試合』ですが、実のところ「確実に行った」記録も「これは創作である」という記録も、確かな資料には出てこないので「なんとも言えない」のが実情のようです。
「あの人ならやりそう・・・」という試合もあったりで、なんとも楽しいイベントだと思います。

で、講談になるともっとこの試合内容は面白くなり・・・
塚原卜伝 対 法蔵院覚善坊
土子泥之助 対 山田久太夫入道伴山
伊東一刀斎 対 毛利玄達
柳生宗冬 対 由井正雪
なんて試合まであります。
いつの時代も、こういうネタ好きなんですね。

次回は徳川家の家臣の方からご登場願います。

拍手をどうもありがとうございます~
いつも励みにさせていただいております。
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剣豪さんいらっしゃった後の祭り 

宗矩「お疲れ様でした」
忠明「やりごたえのあるお役目だったな」
宗矩「そうですね、非常にタメになりましたね」
忠明「それにしても、随分延長したような」
宗矩「・・・最初は主要流派の主要人物少しお呼びして終わるハズだったんですが、途中から楽しくなってきたようですよ、まだ紹介したことがない剣豪さんも沢山いらしたので」
忠明「まぁ、俺たちもノリノリだったからな・・・しかし、振り返れば五十人か」
宗矩「・・・意識してませんでしたが、戦国時代周辺は剣豪が本当に多いですね」
忠明「それだけ需要があったという事だろうな」
宗矩「武士は職業柄必要ですし、一般の人々も自衛手段として兵法を習うことも多かったようですね」
忠明「それと、戦国時代の道場は江戸中期以降のものと違って、柵で囲んだだけの青空道場も割りとあったな」
宗矩「我々の江戸初期も、せいぜい屋根があってもただの板敷きか土間でしたからね」
忠明「ふん、道場主が一人で畳敷きの一段高い場所から稽古を監督するなど・・・手ぬるいな」
宗矩「時代によって武芸道場も様変わりしたんでしょう」
弥三「ご歓談中、失礼しますぞ殿」
忠明「おお、村田弥さではないか」
弥三「小野様、相も変わらずかわいら・・・っと覇気に満ち溢れておりますなァ」
忠明「おぬしも変わらず、掴み所が無いな」
弥三「へっへっへ、お褒めに預かり」
宗矩「弥さ、どうかしたか?」
弥三「ト、そうそう。お城から文が届いておりましたので、持って参りました」
宗矩「文・・・なんだろうな・・・・・・げ」
忠明「なんだ、どうした・・・・む」

家康:何か忘れていないか?(怒りに満ちた筆跡)

宗矩「・・・すっかり忘れていた(ぶっちゃけ伊勢守様お招きして幸せすぎて)」
忠明「これからすぐに準備をして、取りかかればいいではないか」
宗矩「そうですねぇ、打ち上げは延期ですね」
忠明「で、誰が来る予定なのだ」
宗矩「徳川家から兵法数寄の方々と、家臣の中で剣豪とかかわりのある方などをお呼びする予定ですね」
忠明「ふーん、それは面白そうだな」
宗矩「とりあえず、賄賂最中持って出かけましょう」
忠明「袖の下まんじゅうも持っていくか」
弥三「いってらっしゃいまし~」

つづく

村田弥三(むらた やぞう)・・・柳生石舟斎の頃から柳生家に仕える。若い頃から宗矩の身辺にあり、見守ってきた人。柳生家の縁の下の力持ちさん。性格はお茶目で、人懐っこい。山岡荘八『柳生宗矩(春の坂道)』に影響を受けまくった設定になっております。史実では詳しいところは私はまだ把握していません(すいません)

・・・忘れていたわけではないんですよ?ネタです、ネタ。
と、言うわけで剣豪さんいらっしゃい、もうちょっと続くんです。お待ちください。
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剣豪さんいらっしゃい~上泉信綱のまき~ 

上泉信綱(1508?~1577?)
通称(または幼名?)源五郎。上州大胡氏の一族、上泉氏である。
名は秀綱、後に信綱。伊勢守と呼ばれるが、一次資料である『言継卿記』にはこの呼称は見られず、『武蔵守』とだけ確認できる。
新陰流の祖であり、「袋竹刀」を考案したことでも知られる。
その人生の半分以上は、上州の黄斑と呼ばれた長野業正の家臣であり、大胡城を守る戦国武将として活躍している。武田・北条と戦い、その活躍から「長野十六槍」と呼ばれ、その中でも特に「上州一槍」と呼ばれ業正より感状を与えられたと言う。
武将としての活躍の中で、愛洲久忠や松本政信に師事して陰流、神道流などを学んだ。
長野氏の居城・箕輪城が武田信玄に攻められ落城した後は、仕官を求めた信玄の誘いを辞退して兵法修行の旅に弟子と共に旅立つ。
後に柳生宗厳に与えた『影目録』において「予は諸流の奥源を究め陰流において奇妙を抽出して新陰流と号す」と記している。
山科言継・北畠具教といった知己を持ち、弟子は新陰流を継ぎ「無刀取り」を完成させた柳生宗厳、タイ捨流の祖・丸目長恵、宝蔵院胤栄、疋田景兼、また足利義輝にも指導を行ったとされる。
生没年共に推測であり、詳しいところはいまだ判明していない。(柳生の里には信綱の「供養塔」が現存する。群馬県前橋市の西林寺には上泉信綱の墓とされる墓が存在するが、息子・秀胤の墓とする説もある。)
山科言継の『言継卿記』には「元亀2年7月21日に京を去り、故郷へ向かった」という記述があり、以降の日記に信綱に関する記述はない。
没年は1577年とも言われるが、これも定かではない。

※毎度のことですが、今回も得た情報による自説が右往左往しております。

忠明「!・・・・・・あ、ありがとうございます」
宗矩「可愛いと言った相手を半殺しにする忠明殿が・・・お礼を!?」
信綱「今日はよろしくお願いいたします」
忠明「こちらこそ、お願いいたす」
宗矩「ご丁寧なご挨拶、恐縮です」
信綱「さて・・・ここでお二人に質問です」
忠明「なんだろうか」
宗矩「は、はいっ」
信綱「私が兵法者として旅に出るのはいつのことでしょう?」
忠明「それはもちろん・・・」
宗矩「永禄九年(1566年)では」
信綱「ふむ、箕輪のお城が落ちたのが永禄九年でしたから・・・と、ここで問題発生です」
忠明「もんだい?」
宗矩「どこに問題が・・・・・・ああっ!」
忠明「む、何かあるのか?」
宗矩「うちの親父が伊勢守様に唯一授人の印可を頂いたのが、永禄八年です」
忠明「八年・・・城が落ちる一年前ではないか。そんな時に奈良にいるのは」
信綱「そうなんですよね、おかしいですねぇ」
宗矩「武田の猛攻があったであろう年に、家臣である伊勢守様がおられないはずは・・・」
忠明「すると、伊勢守様が印可状に書いた日付を間違えたとか」
宗矩「大事な印可にそんなことするわけないでしょう」
忠明「ふむ、他に理由としては・・・そもそも箕輪城が落ちた年が違っているとか」
宗矩「こう言っちゃなんですけど、長年寺古文書は甲陽軍鑑よりも信頼されている文書ですよ」
忠明「むぅ、すると、どうすればいいのだ」
信綱「はい、よく考えてくれました。そこはほら、この本人がお答えしますよ。私が旅に出たのは・・・永禄六年です」
忠明「・・・と、すると」
宗矩「箕輪城の落城は永禄六年が正しいと」
信綱「違います違います。城が落ちる前に旅に出ていたんですよ」
忠明「な、なんだと・・・」
宗矩「そ、そんなっ」
信綱「大丈夫ですよ、家督を秀胤に譲って、隠居の身で旅立ったんですから」
忠明「なるほど、隠居したのか」
宗矩「しかし、長野家も危うい時に・・・」
信綱「あれは、永禄四年。冬も近いある日のことです、私は長野業正様に呼び出されました」

~信綱の回想~
秀綱「業正さま、お加減はいかがでございますか」
業正「見ての通り、だよ。恐らくは冬を越せぬであろうな」
秀綱「・・・」
業正「秀綱殿、これまで長野家によく尽くしてくれた。改めて礼を述べたい」
秀綱「なんの、これも業正さまのお人柄を私が慕ってのことでございます」
業正「・・・秀綱殿、そろそろもう良いのではないかな」
秀綱「それは、どういう」
業正「本当は兵法を思う存分探求したい・・・そうではないかな」
秀綱「!」
業正「新陰流の隆盛、きっと秀綱殿ならば出来るだろう」
秀綱「業正さま・・・」
業正「一度の人生、最後は自分に付き合ってあげなさい」
秀綱「やはり、業正さまには敵いません。私の心の迷いを見事に突かれた・・・わかりました。この秀綱、きっと己の兵法を完成させ、いつか、この上州に報告に参ります!必ず!」
業正「うむ、楽しみにしているぞ!」

信綱「・・・と、このようなことがあり、それで私は兵法修行の旅に出ることを決意したのです」
忠明「いい話だな・・・」
宗矩「・・・ううっ・・・そうですね」
信綱「長野家の家臣である時から、ずっと兵法の修錬と研究は続けていました。その中で、兵法を究めることと武将として生きることとの生き方の違いに悩んでいましたから、業正さまのお言葉は嬉しかったのです」
忠明「いくら兵法が好きとはいえ、そう簡単に主家を飛び出すわけにも行かないからな」
宗矩「忠明殿ですら、一刀斎先生に弟子入りする時は主家に許可を得たんですか?」
忠明「当たり前だ。そういうところは筋を通すのが道理と言うものだ」
信綱「そうですね。私も一応領地を持ち、少ないながらも家臣もおりますし、兵法と天秤にかけても彼らを捨ててと言うのは、出来ませんでした・・・家を託せる者が育つまでは」
忠明「兵法への情熱を50年以上持ち続けていたのだな」
宗矩「様々な勢力が戦いを繰り広げた中で・・・」
信綱「そういった中であるから、でしょうかね。塚原ト伝先生だって、乱世の中で新当流を開かれて、門弟も関東には沢山いたんです。争いの中で、兵法は進歩していました。無刀取りだって、刀すらない時の対処法として考案中だったんですよ?」
忠明「弓・槍・刀、この辺は武士として食っていくには必要な技能だしな。需要が増せばおのずと改良も早くなると言うわけだな」
宗矩「相手を傷つけないように・・・なんて戦の最中にそんな甘いこと言ってたら自分がやられますからね」
信綱「私が苦心したのは、戦以外で怪我をしたり命を落とすことを減らすことです。修行では、木刀を使うでしょう。あれって、未熟な者が扱うと打ち所を間違って死に至る怪我をすることも多いのです」
忠明「木刀も割と危険だからな。熟練者は寸止めできるのだが」
宗矩「戦のために兵法を習うのに、出る前から死んでたら意味が無いですよ」
信綱「そうです。木刀での稽古には、教える側と教わる側も神経を使いますし・・・怪我をせずに、指導に集中するにはどうしたらいいのか・・・そう考えて、たどりついたのがこの“ふくろしない”です」
忠明「最初見たときは、変なものだと思ったな。竹を裂いたのを、獣の皮で包んでいるとは」
宗矩「新陰流の稽古はずっとこれを使っていますから、馴染み深いものです」
信綱「ふふ、これ、怪我をしにくいから振りぬいた稽古も出来ます」
忠明「意外と実戦的なのだな」
宗矩「そうです。それに剣を段階的に学べるように勢法(稽古の型)を整えたのも、伊勢守様が最初です!」
忠明「ふん、俺も一刀流の稽古がしやすいように組太刀を考案したぞ」
信綱「後に続く人を育てる為の試行錯誤は大事です。忠明殿も私とおそろいですね」
忠明「おお、おそろい・・・なのか?」
宗矩「えっ・・・あ、あの」
信綱「弥五郎さんの創ったものをちゃんと継ぐなんてえらいですね」
忠明「あ、ありがとうございます」
宗矩「あの、お、俺も泰平の兵法のありかたについて沢山考えました!剣と禅の一致とかっ!」
信綱「わかってますよ。それに、あの素敵な里を守る為にも頑張ってくれたんですよね」
宗矩「!・・・はい、自分の故郷ですからっ」

信綱「不思議な縁ですね、お二人で同じお仕事をするなんて。性格も剣への理念も違いますよね」
忠明「別に、何かを共に行ったわけではないしな」
宗矩「史実では全く接点が無いんですよ」
信綱「ふーむ、・・・どっちが強いんでしょうね」
忠明「やはり、気になりますか、見ろ柳生これは勝負をしないと」
宗矩「ちょ、ちょっと煽らないでください!」
信綱「ふふふ、ごめんなさい。争わないでください、東の一番は忠明殿、西の一番は宗矩殿、ねっ、これでどうです」
宗矩「え、その発言はまずいんじゃ」
長恵「誰が西の一番だとぅ!?」
忠明「俺は全部の一番がいい!」
信綱「あらあら、ややこしくなってきましたねぇ」
宗矩「わ、笑い事ではありませんよ!」
信綱「ま・・・いざとなったら私が勝っちゃいますけどね」
宗矩「え・・・」

宗矩「なんだかんだで、戦国の剣豪なんですね」
忠明「俺たちとは気合の入り方が違うな」
宗矩「塚原ト伝様といい・・・我々も負けずに精進いたしましょう」
忠明「無論だ、そのために」
宗矩「しませんからね、勝負は」

おわり

剣聖さんでした。
上泉信綱さんに関しては、最近彼の主家である長野家の居城・箕輪城の落城時期が永禄六年ではなく九年が有力な説となっており、そうすると信綱さんの足跡がつじつまが合わなくなってきそうだったので、貧相な知恵で勝手に推論を立ててみました。
長野業正に関しても、江戸時代に色々と脚色されて伝わっている話もあるようで、その辺もあわせて色々と考えを練り直す必要も今後あるかなーと思っております。

上泉信綱が戦国最強の剣豪と言われるのは、単純に強かったというわけではなく、後世に影響を強く残すような兵法上の工夫を多く残したからではないでしょうか。兵法を理論立てて説明したり、効率の良い指導について道具を考案したり、弟子にもそれぞれ一流を立てた達人ぞろいですし。
池波正太郎先生の『剣の天地』は伊勢守小説では個人的にオススメです。他に、海道龍一郎先生の『真剣』も面白いです。塚原ト伝に負けずに地元が盛り上がっていくといいですね~。銅像も建ったし。

最後までぐだぐだな終わり方でしたが、これにて剣豪ご紹介コーナーは終了です。
へっぽこな解説にここまでお付き合いいただき有難うございました。
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