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行き当たりばったり 道中日記

  // 

信長の野望に登場する戦国武将・剣豪・その他徒然の、ゆるい風味の紹介動画を作成しています。

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剣豪さ(略)~上泉泰綱のまき~ 

このブログでは以下の説の家族構成前提でお送りしたいと思います。

父親:上泉信綱 長男:秀胤→息子:泰綱
        次男:憲元
        三男:秀胤(養子)→息子:義胤

上泉泰綱(?~1600)
上泉信綱の孫、父親は上泉秀胤。
叔父の上泉憲元と通称が同じ“主水”なために混同される。(憲元は信綱の次男であるため、泰綱次男説はここから出たとも考えられる)
父と共に、北条家に仕え、父が国府台合戦での負傷が元で亡くなると家督を継ぐが、後に北条家が滅びると浪人してしまう。
その後の彼の動向は不明だが、関ヶ原の戦いの前に上杉家が軍備増強の為に前田利益などの武勇に秀でた人材を集めていた中に、泰綱も名を連ねていた。
そして直江兼続の下で、長谷堂城の戦いにおいて奮戦するも討ち死にした。合戦の後、近隣の村人らが泰綱が討ち死にした場所に、供養のために『主水塚』を作り、現存している。


忠明「武器は紐か、三味線糸か、人体二つ折りか?」
宗矩「引っ張りますね・・・ここは普通に剣術でしょう、名前的にも」
泰綱「うん、剣術にしてもらえると俺も助かるな」
宗矩「それに、いまだに剣豪関連書籍やサイトでも、憲元殿と泰綱殿がごちゃまぜになっていますからね。はっきりさせておきませんと進行し難いですし」
忠明「では、泰綱殿は信綱様の孫、という方向でよいだろうか」
泰綱「これからは“戦国仕事人、上泉泰綱!”と憶えて欲しいな」
忠明「うむ、わかりやすい呼び名だな」
宗矩「それでは、決まったところでお話を伺いましょう」
泰綱「そうだなぁ、まずは父上が亡くなられた頃からかな」
忠明「戦の傷が元で亡くなったそうだな」
宗矩「永禄六年の一月の国府台合戦でしたね」
泰綱「戦だってことで覚悟はしているけど、それでも急だったから驚いたな」
忠明「フラグが立ってしまったのか」
宗矩「またそういう・・・!」
泰綱「父上は北条では新参だったから、手柄を立てようと張り切っていたのになぁ・・・そうか、それがフラグ」
宗矩「理解しちゃってる!?」
忠明「さすがだな」
泰綱「亡くなられてすぐ、俺が上泉の家督を継ぐことになって、お祖父さんに父上の訃報を知らせ、戻ってきて貰えるように使いを出した。翌年の初夏に、お祖父さんが戻られて・・・ちょっと泣いたな」
忠明「・・・っ」
宗矩「(最近、涙もろいな~)信綱様もショックでしたでしょうね」
泰綱「だと思う。顔には見せていなかったけど。お祖父さんにも、俺が家督を継ぐことを承認してもらってそれで正式に俺が上泉家の家督を継いだのさ」
忠明「なるほどな」
宗矩「家督を継ぐにも手続きは必要ですからね」
泰綱「それからは、平穏に北条家で・・・とも行かなかった。天正十八年に小田原城を秀吉に攻められて、北条家は崩壊してしまった」
忠明「むぅ、その頃は俺も節目だったな(小金原で)」
宗矩「その時歴史が動いた瞬間でしたね」
泰綱「主家が倒れてしまって、当然俺は浪人してしまった」
忠明「どこからも再仕官の誘いはなかったのだろうか?」
宗矩「ありそうなものですけどね」
泰綱「うーん、これは俺の我がままだったんだが、お祖父さんのように俺も兵法修行に注力してみようかと思って、どこにも仕官せずに、お祖父さんが修行をされていたと言う場所を巡っていたんだ・・・家族には迷惑かけたが」
忠明「いい機会、だったのかもしれないな」
宗矩「それでも、泰綱殿のことを伝え聞いて招く声がかかるわけですね」
泰綱「ああ。越後の上杉家からな。剣の修行もそれなりに出来たし、そろそろ仕官して上泉の家の地固めもしなけりゃいけなかった。直江殿は実直な方で信用できる人柄だったし、俺は誘いを受けた」
忠明「戦のための増員だから、実力を見せる時はすぐそこだしな」
宗矩「・・・長谷堂城の戦いですね」
泰綱「そう、上泉主水泰綱の一世一代の見せ場さ」
忠明「戦況は、どうだったんだ?」
宗矩「ええと、最初は・・・最上勢:志村光安以下千名。上杉勢:直江兼続以下一万八千名、で開始ですね」
忠明「数では上杉が圧倒的に有利だな」
宗矩「そうですね、どこかの上田と同じですね」
忠明「ぬっ」
泰綱「長谷堂城は落とさなければ、最上義光殿がいる山形城を攻めようとする時に挟撃されるから、まずは長谷堂城を攻略、という運びになったのだが・・・志村殿の守りは堅く、結局増援を呼ばれてしまって戦況は拮抗状態にまで陥ってしまった」
忠明「15日に戦いが始まって、大きく衝突したのが29日か」
宗矩「この時には、最上義光殿も出てこられて、本格的なぶつかりあいだったようですね」
泰綱「そう、だったな。とにかく、敵も味方も手勢を出し合って激しい衝突で、俺も一隊を率いて奮戦していたのだが・・・夢中になって斬り込んでいるうちに味方から離れてしまってな、気がつけば敵の真っ只中さ」
忠明「泰綱殿の進言を兼続殿が聞き入れてくれず、劣勢になって引き上げの命令が出たのに従わずに敵陣に突っ込んだ、という話もあるが」
泰綱「なんだそりゃ、それって単に直江殿を貶めたいだけで書いたんじゃないのか?うさんくさいな」
宗矩「孤立した時に、部下が誰も動かず、前田利益殿だけが救援に来てくれたとか」
泰綱「おいおい、孤立している味方一人に、そんな無駄なことするかねぇ?だいたい、前田利益殿は俺の近くにはいなかったけど・・・」
忠明「後世の資料と何か違うようだが・・・」
宗矩「・・・ま、脚色がかなり入っているんでしょうね。著者の目的とかなんやかんやで」
泰綱「まぁ、後世の語られ方がどうであれ、俺は死んで名だけは残せた。上泉家は米沢で続いた。それで俺は満足さ」

忠明「大きい人を家族に持つと、大変そうだな」
泰綱「そりゃそうだ。上杉に行った時にも『あの上泉信綱の孫だって』ってそういう目で見られるんだぞ?」
宗矩「当然と言えば当然ですが、すごいプレッシャーでしょうね」
泰綱「きっと、父上も同じような重圧を北条で感じていたのだと思う・・・別にお祖父さんが有名人なことが悪いことではないけれど、大きすぎる負担ってヤツはあるもんさ」

忠明「いよいよ、だな」
宗矩「そうですね・・・一番楽しみなんですが、だんだん怖くなってきましたよ」

つづく

上泉泰綱さんでした。
自分の調べ方がザルだったせいで、色々と立ち位置がふらふらしてしまいました。上泉主水憲元という人を、この長谷堂城の戦いでの逸話の主とする説もあるのですが、現在まで続く上泉家の方によれば、それは泰綱のことである、とのことですのでそちらに倣わせていただきました。
泰綱の長谷堂城の戦いでのエピソードは「常山紀談」や「奥羽永慶軍記」などに記されています。
常山紀談では主に泰綱を助けに行く前田慶次の活躍ぶりが語られるますが、奥羽永慶軍記では慶次は登場せず、泰綱の奮戦ぶりが書かれてあります。
泰綱が討ち死にした後、地元の村人が供養の為の塚を建てるくらいなので、その奮戦たるや相当のものだったのではないでしょうか?
現在でも「主水塚」として彼の活躍を偲ぶ事が出来ます。

次回は、いよいよ新陰流の流祖のご登場です。一番好きな人だけに、一番書くのが難しそうですが、どうぞ気楽にお待ちください。

あと、サイトの模様替えはさっぱり思いついていません(笑)どーしよー
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剣豪さ(略)~上泉秀胤のまき~ 

上泉秀胤(1530~1564)
上泉信綱の長男。伊勢守。
父からは、新陰流と小笠原氏隆より学んだ『上泉流軍学(軍法)』を学んだ。
天文二十年(1551)、関東管領上杉憲政が北条氏康に攻められ、越後に敗走。天文二十四年に北条は上泉親子の居城である大胡城を攻める。信綱は善戦したが、かなわず降伏し、息子の秀胤は人質として北条氏に向かう。
箕輪城落城後は父と共に兵法修行の旅に従い、京都まで赴いた。
その後父と別れ、関東へ戻ると北条氏に仕えるが、永禄七年(1564)の第二次国府台合戦において重傷を負い、ほどなくその傷が元で亡くなった。
信綱の菩提寺である『西林寺』には信綱開基とされる息子・秀胤の墓があり、信綱はここで十三回忌の法要をいとなんだと伝わる。
秀胤の息子には上泉義胤と上泉泰綱がおり、秀胤の家系は米沢藩士として続いている。

※豪快すっとばしは相変わらずです。上記の経歴は通説に基づいて編集されていますが、下会話は7割がた妄想です。

宗矩「も~、軍学くらい嗜んでおかないと戦の時に困りますよ」
忠明「どうせ俺は、指揮するよりも勝手にやるほうがいいのだ」
宗矩「・・・大坂の役で道具奉行だったのがそんなに嫌だったんですか」
秀胤「ふむ・・・では動きのある講義に変えようか?」
忠明「おう、それならいいな」

なんかアクティブな軍学の講義開始

秀胤「そもそもっ、軍学とはっ、室町末期より戦における用兵、戦術を実践と共に研究してきた現在進行形の学問っ、なのだ!」
忠明「おお、兵法と同じ、なのだなっ!」
宗矩「・・・なんか視界が超うざったいのでやめてもらえませんか。どたばた五月蝿いし」
秀胤「ふむ・・・動きに関しては効率の良く、見栄えの良い動きを考案する必要があるか」
忠明「軍学も兵法も戦うための技術だから、うまく合わせられるかもしれんな」
秀胤「うむ、善処しよう」
宗矩(なんだ、この、ズレているけど意気投合する様は・・・)
忠明「落ち着きがあってノリもいいとは・・・やるな」
秀胤「急に武田に攻められ、北条に攻められ、管領殿が逃げる関東だ。臨機応変でなければは生きて行けんよ」
忠明「関東でプレイを始めると武田が鬼門だって話だからな」
宗矩「またそういう・・・」
秀胤「まぁ、腕のいいプレイヤーなら関東武将で天下統一も出来るだろうが、現実には俺は北条へ人質に、長野家は滅亡だからな」
宗矩「・・・厳しいですね」
忠明「しかし、北条の人質になったのに、信綱様と共に旅に出ているのはどんな裏技を使ったのだ?」
秀胤「北条が攻めてきた後、上杉景虎と名を改めた戦上手が関東にやって来て、大胡の城と私を取り返してくれたからな」
宗矩「さすが、謙信公ってところですね」
忠明「雪のないとき限定だがな」
秀胤「まぁ、そんなわけで父の元へと帰ったが、その後主家は滅亡して・・・俺も父上の旅に同行することになった」
忠明「兵法修行の旅だな」
宗矩「秀胤殿の旅の目的はなんだったのでしょうか?」
秀胤「これからのために、世情を詳しく知ることと、広い視野を学ぶ為だ」
忠明「修行だけが目的ではないのか」
秀胤「・・・忘れてもらっては困るのだが、上泉家も元は領地を持っていたのだ。家臣だっていたんだぞ」
宗矩「そうすると、信綱様は上泉家を捨てて兵法の道へ進まれたと言うことになりますね」
秀胤「いや、そう極端ではない。家督は俺に譲ったし、準備だって色々としたんだ」
忠明「それはそうだろうな。いかな剣聖と言えども、無責任に全てをかなぐり捨てて出て行ってしまうわけは無いな」
秀胤「父上は、何にでも義理堅い方だからな。上泉家を存続させることも考えていらっしゃったのだ」
宗矩「いかにして家を守るかも、大事なことです」
秀胤「俺は、言ってみれば京まで父上をお見送りしただけの事だ」
忠明「見送りついでに、情報収集ということか」
秀胤「実際は、奈良までの見送りだったが」
宗矩「柳生に信綱様がおいでになった時ですか」
秀胤「ああ。宗厳殿に出会って、父上も色々と思われることがあったのだろう、京行きを後にして、招きに喜んで応じていたからな」
忠明「それで、別れて、関東へ戻って北条家に仕官をしたと」
宗矩「なぜ、自分が人質にもなった北条家へ仕官をしたのですか?」
秀胤「北条のほうが仕官しやすかった」
宗矩「わかりやすい回答をありがとうございます」
忠明「その様子だと、北条での人質待遇は悪くなかったようだな」
秀胤「そうだな。特に北条綱成という武将が、父上の新陰流には興味をもたれていて、色々と話をした・・・もっとも、武田に人質に出ていても、同じようなものかもしれんな」
宗矩「武田の方々にも一目置かれていたようですしね」
忠明「当時から関東では上州一槍と賞されていたのだしな」
秀胤「父は残された時間を、好きな兵法に傾けることを望んだ。これまで武将として家を守り続けてきた父上に代わって、俺もしっかりと上泉の家を残して行こうと努力を重ねたつもりだ。武功としてはたいした活躍も出来なかったが・・・どうにか子孫たちは生き残ってくれたようだしホッとしているよ」

忠明「そういえば、どうして義胤殿に新陰流を習わせなかったのだろうか?」
秀胤「?それは常陸介の息子だろう」
宗矩「あれ?だって秀胤殿のご子息でしょう?」
秀胤「だから、義理の弟の常陸介秀胤の息子だろう。俺は伊勢守秀胤だ」
忠明「・・・???」
宗矩「別人なん、ですか?」
秀胤「武家家伝・上泉氏でググると、系図が出てくるからそれを参照すると良い」
忠明「サラッとネットをすすめるとは・・・さすが只者ではないな」
宗矩「どんどんメタが伝染していきますね・・・今更ですけど」

秀胤さんでした。こちらは、実子の秀胤さん。他に、主水憲元という次男と、養子の三男、技の二号こと常陸介秀胤さんがいます。ややこしいことこの上ないのですが、ネットでも調べると案の定ごっちゃごちゃになっています。
が、実子の秀胤の没年が1564年。義胤の没年が1647年で、没年齢は不明ですが寛永の頃に70歳近かったこととを考えると、義胤の没年を70~80歳前後として逆算しても、「実子の義胤」の没年と照らし合わせるとおかしなことになります。そうすると、力の一号・秀胤さんが父親と言うのは間違っていると言うことになります。

・・・上泉さんの一家は他に「ふたりの主水」とか色々とややこしいので、自分でも前はごっちゃになった知識で描いてしまっている部分があります。・・・とりあえず。義胤はちょっと修正しました。
まだまだ甘い調べ方なので、「これはちょっと違うんじゃ」という部分もありますが、あった際は「異議あり」とつっこんでやってください。

次回は慶次と同僚、の人です。
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剣豪さ(略)~神後宗治のまき~ 

神後宗治(?~?)
上泉信綱の高弟の一人。伊豆守を称する。
長野家の家臣であったというが、その経歴はまったくわかっていない。
箕輪城が落城し、長野家が滅亡した後に師の上泉信綱、同じく高弟の疋田景兼と共に兵法修行の旅に出た。
旅の途中に、浪人に人質に取られていた子供を信綱が救ったことがあった。その時、信綱は僧侶に変装して油断を誘い、浪人を取り押さえたが、その袈裟を貸した僧侶はたいそう感心しそのまま袈裟を信綱に贈った。この袈裟は後に宗治に譲られている。師と共に京へ上り、将軍・足利義輝に兵法を指南したという。
後に師と別れたものと推測され、豊臣秀次に兵法を教えたらしい。
彼の興した流派は師の「新陰流」を名乗ることをはばかって「神影流」と称した。
弟子には服部藤次兵衛・和田兵斎・土屋将監などがおり、服部は将軍・家光に「神妙剣」を上覧し、和田は宗治より信綱から賜った袈裟を贈っている。


忠明「ま、まぁ何だ。こうしてみると結構話題の種があるではないか」
宗矩「そうですよ。後の世まで存続している流派の祖であられるわけですし」
宗治「ありがとう・・・だが、無理はするな」
忠明「まだ、終わらぬ!一刀流はこれしきのことで音を上げぬわ!」
宗矩「鈴木意伯殿というのは宗治様の異名でしょうか?」
忠明「ぬ、柳生、お前俺が言おうとしたことを・・・!」
宗治「そうだな、私の母方の姓が鈴木で、意伯は号でな・・・という説もあるような、ないような」
忠明「俺も、小野姓は母方の姓だという設定があった気がするな」
宗矩「どうでもいい共通点ですね・・・全く名前が違うのになぜ同じ人物と考えられるのでしょうか?」
宗治「・・・それを私に問うかね。上州に居た頃は神後で通っていたから、伝える者が鈴木と混同して書いたとかな」
忠明「神後よりも鈴木としての存在は薄いのか」
宗矩「コラッ!失礼な・・・!」
忠明「上泉四天王と謳われた方が、こうも資料不足とはな」
宗矩「そ、そうですよ、もっとしっかり記録に残られればよろしかったのに」
宗治「ははっ、勘弁してくれ。私など未熟で師の足元にもおよばぬ。なにやら弟子たちに乞われて一流を開いたが、恥ずかしくて『神影流』という表記にしたことを忘れてくれるな」
忠明「謙虚なのだな」
宗矩「しかし、神影流の強さは江戸にも届いておりますよ!家光様の前で、高弟・服部殿が上覧をされましたしね」
宗治「ほう、それはそれは。兵法も商売だからな。身分の高い方に評価されるのは有難い」
忠明「足利義輝公や、関白秀次公に指南をしたとか」
宗矩「その時期の有力者に指導される・・・さすがです」
宗治「お二方に指南をさせていただいたのは、光栄だったが、どちらも兵法では御身を守る助けにもならなかったのは寂しかったな」
宗矩「・・・兵法が役に立つかどうかは、時と場合による・・・というか」
忠明「運次第だからな」
宗治「その通り。むしろ、変わった芸当として庇護されていたほうが食えるからな・・・師もそういった収入源を持っていたからこそ、どこにも仕官せずに旅を続けてこられたのだし」
宗矩「しょっぱい稼業ですよね、兵法者って」
忠明「金もかかるしな」
宗治「一発当てて、儲かる!モテる!という職業ではないからな。私も、義輝様、秀次様と有能な兵法の才を持っていた方が若くして死んでしまったのを見て、空虚な気持ちになってな。そんな時だ・・・師より別れの言葉と、餞別にとこの袈裟をいただいたのは」
宗矩「それは・・・」
忠明「・・・僧侶になれという意味だろうか?」
宗治「私もそれは考えた。実際、悩んだな・・・」
忠明「ん・・・秀次公の所には、疋田様もいたではないか」
宗矩「疋田様は秀次公が自害されて、どう思われたのでしょう」
宗治「ああ、文五郎は秀次様の死を悼みはしたが、すぐに修行の旅に出たよ」
忠明「割り切るのが早いな。それも戦続きの世で生きる術の一つだが」
宗矩「でも、結局宗治様も、兵法を続けることを選んだのでしょう?」
宗治「これがな・・・似合わないのだ、袈裟が」
忠明「似合わないなら仕方がないな」
宗矩「それは・・・そんなもんなんですか」
宗治「そんなもんなのだよ。結局のところ、私も兵法が、新陰流が大切なものだったのだよ」
忠明「だからこそ、生き残ったのだな、神影流が」

忠明「ところで・・・柳生、花車という技を知っているか」
宗矩「ああ、“天狗抄”の一つで・・・それが何か?」
忠明「その技だが、使うと必ず相手も殺すが、己が死に至ると聞いたのだが・・・」
宗矩「なんですか、その厨ニ設定」

つづく

神後宗治さんでした。この方は、確実な資料がサッパリないのでネタ探しに苦慮しました。
綿谷雪氏の『新・日本剣豪百選』には神後さんは「八王子の生まれ」とありますが、これも確実な話ではありませんし。
鈴木意伯=神後宗治も確実性はありませんが、この鈴木さんは上州に信綱が居た頃には出てこないし、いくつかの資料に登場するとき、同じシチュエーションの場面で神後だったり鈴木だったりするので、たぶん同一人物じゃないのかと思います。
あと、信綱の有名なイベント(逸話)でゲットしたアイテム(袈裟)を、神後さんが貰っていたりしますし。やはり師から一目置かれた方だったんではないでしょうか。

ちなみに、最後の「花車」という技の厨ニ設定は戸部先生の『秘剣・花車』より利用させてもらいました。
使ったら死ぬなら、どうやって教えるとか覚えるとかそういうことを思ってはいかんのです。

ひとまず、どうにかネタを使って会話を構築できてホッとしております。
次回は上泉のターン突入?です。

拍手を頂きありがとうございます。
本来ならば、ネタへの解説とか足りていない部分の補填とかを小幡にやらせるのが(景憲殿ごめんなさい)ベストだと思いますが、その辺は永続魔法「次の機会に使います」でどうか一つ。
それではまた次回~
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剣豪さ(略)~疋田景兼のまき~ 

疋田景兼(1527?~1605)
加賀生まれで、母は上泉信綱の姉と言われている。
通称は文五郎(豊五郎とも書く)。号は小伯(虎伯とも)。晩年は栖雲斎(せいうんさい)。
実のところ、出自も経歴もよくわかっていない。
伝わるところによれば、上泉信綱と共におり、身辺の世話をし、彼に従って長野業正にも仕えたということらしい。1566年に長野業盛(業正の息子)が自害し、箕輪城が落城すると、信綱は兵法修行の旅に出ることを決意し、景兼もまたその旅に加わっている。
大和国宝蔵院で、当時畿内随一と言われた兵法者である柳生宗厳と立ち合い、「その手は悪しゅうござる」と言い、三度彼を負かしたと言われる。その後、宗厳の招きに応じた師と共に柳生の庄へ向かい、そこで「この後は自身の一流を建てよ」と師と別れ、一人修行の旅をはじめる。
一時は、関白であった秀次に兵法を教えていたらしい。その後、細川幽斎の元に寄寓し、寺田家にも仕官している。再度、細川家に仕えた後に、最後は大阪城に入りそこで客死したとも言うが、その最後は明らかではない。


宗矩「あんたね、小説とかTVとか、メタ情報に影響されすぎなんですよ」
忠明「むぅ」
景兼「山田?弟子に山田勝興ならいるが・・・」
宗矩「いや、景兼様、乗ってくださらずとも」
忠明「孫弟子が、柳生を相手取って世間を騒がす事件を・・・」
宗矩「引っ張らんでいい!!」
景兼「ははは、息抜きはこの位にして、本題と参ろうか」
忠明「では早速、石舟斎殿の腹違いの弟だといううわさがあるのだが、どうなのだろうか」
宗矩「また、ややこしい話を・・・!」
忠明「・・・柳生流秘書という資料にそうあるのだぞ、気になるではないか」
景兼「はっきり言うと、その可能性も無くはない・・・が、考えてみろ、その前提で話をすると」
宗矩「逸話にかなり無理が出てきますよねぇ」
忠明「・・・むぅ、やはり信憑性は薄いのか」
景兼「話の構成に隙がありすぎるな。どうぞ打ちのめしてくださいと言わんばかりだ」
宗矩「まぁ、俺もどっかの資料で五郎右兄が俺の弟と書かれていた例もありますし」
忠明「よほど大きな家でもない限り、出自の記録なんぞ取っていないしな」
景兼「俺は生涯流浪だったからな、尚更だな」
忠明「ふむ・・・あとは、宝蔵院で石舟斎殿に三度勝ったという話なのだが、事実だろうか」
宗矩「なんでそう、えぐるような話題ばかりを!」
忠明「しかし、信綱様自身が立ち合ったとも、もう一人の高弟・鈴木意伯殿が立ち合ったとも言われているのだぞ」
景兼「んー、そうだな。こう考えるとよろしい」
宗矩「・・・?」
忠明「む」
景兼「道場などでも、道場破りに対する時は、弟子たちからかかるだろう」
宗矩「相手の手の内をあらかじめ道場主が確認できますしね」
景兼「つまり、最初に俺が立ち合って、三回も負かした。さらに、意伯殿が立ち合い、また負かした。そして最後に我が師が相手をしたということだ・・・つまり、宗厳殿はこてんぱんに負けたのだ」
忠明「な、なんと・・・!」
宗矩「確かにその線で行けば、全部の説を内包できますけど・・・いくらなんでもウチの親父をディスりすぎじゃないですかね」
景兼「(なんだかんだで、父上のことを好きなのだな、うむ)それは違うぞ又右衛門。よく考えて見なさい。宗厳殿はこれほどまでに打ちのめされても、立ち上がり我らに『もう一手!』と挑んでこられたのだぞ。これほどの熱意、この文五郎これまで目の当たりにしたことはない」
忠明「確かに、三度打ちのめされ、なおも立ち上がる姿は、往生際が悪いというよりも必死に相手の太刀を捉えんとする執念を感じさせるな」
宗矩「た、確かに、そうですね(親父・・・やっぱり親父はたいした人なんだな・・・って何でホッとしてんだ俺は)」
景兼「新陰流の正統を、宗厳殿が継いだ・・・そのことに、嫉妬しなかったかといえば嘘になる。当然だ。俺はずっと信綱様の一番の弟子として、あの人の側に付いていた。なぜ、俺は選ばれなかったのだろうと思った・・・柳生の庄で別れを師に告げられた時は」
宗矩「それは・・・景兼様の立場に居たら、そうかもしれませんね」
忠明「一流を開け、とはそれだけの力量を見込まれてということなのだろうが・・・」
景兼「逆に言えば、お前では私の志を完全には引き継げないと言われたようなものだ。少なくとも、俺はそう感じてしまった」
宗矩「信綱様をお慕いすればこその想いですね・・・」
忠明「複雑な心境で修行の旅に出たのだな」
景兼「それから、もともと京都で少し面識のあった細川藤孝殿と親しくなり、仕えることとなった。他に、関白秀次様にも兵法をお教えする機会を得た」
忠明「順調に良い仕官先を見つけていたのだな」
宗矩「そうでしょうか・・・この頃には、秀次公の身辺にもいろいろとあったような・・・」
景兼「まぁ、周囲の話は気にしていなかった。秀次様も兵法にはなかなか熱心だったしな。しかし、長谷川宗喜殿と立ち合え、と言われた時は、複雑な気分になったな」
忠明「長谷川宗喜殿というと、富田流の達人だな」
宗矩「達人同士の、見世物のような立ち合い、ですか」
景兼「嫌な言い方をすればそうなるな。どっちが勝っても、無事には済むまい。お互いに弟子を持ち、兵法の後を考えている指導者としての立場もある。いくら主人からの命とはいえ、この立ち合いは無意味なものにしか思えなかった・・・少なくとも、我が師はそのような立ち合いはなさらなかった」
忠明「戦国の世では、兵法者は『芸者』と同じような見てその妙技を楽しむものという認識が多いからな・・・口惜しいが、仕方あるまいな」
宗矩「鉄の小手で剣を受け止めて首を取る!!これが俺の剣術だぁぁ!!とかやっちゃう世の中ですからね・・・」
景兼「師匠と別れて、俺は俺なりに兵法を工夫してきた。そこには、宗厳殿への対抗心がなかったかといえば、あったなぁ。それでも、自分なりに修行を続け、外の世界に触れてみると、師の教えがしみじみと体に染みとおるようになって来た」
忠明「うむ、俺もそうだったな」
宗矩(景兼様はわかるとして、あんたのどの辺が学んだのかと・・・いや、つっこみはやめておこう)
景兼「それを最も感じたのは、そう、徳川家康殿に仕官する為に技を披露した時であったな」
宗矩「・・・!」
忠明「秀次様が豊臣の事情で自刃して、浪人していた頃か」
景兼「そう。俺の技を見て、徳川殿はこう言われた『確かに名手だが、剣術の教え方には人それぞれ教え方があることを知らぬようだな』・・・とな」
忠明「む、手厳しく『匹夫の剣』と言われたのではないか?」
宗矩「本当に言葉を選ばないなぁ・・・“匹夫”とは、『身分の卑しい人』という意味もありますが、『思慮分別のない人』という意味もあるのですよ」
景兼「そう、俺の剣は、俺の為だけのものであったのだ。師は『その時代に合わせて、兵法もまた改良せよ』ともおっしゃっておられた・・・いつの間にか俺は、『上泉信綱の高弟』という名前に慢心していたのかもしれないな。技術は充分でも、心法は未熟であったと、目を開かされた気がしたよ」
忠明「しかし、気付いたのならば、改めて仕官すればよかったのではないか?」
宗矩「そうですよ、うちの親父も景兼様が徳川家に門前払いされたこと、かなりショックを受けていたんですよ」
景兼「お前たち・・・『考えを改めるから仕官させてください』なんてそんな情けないことできるわけがないだろ・・・それに、細川殿からまたウチ来いよ!と誘われていたしな」
忠明「幽斎殿か・・・己の技を評価してくれる方が居るのは、兵法者として得がたいものだな」
宗矩「そうですね、うちも景兼殿も、適材適所に納まった・・・と言った所でしょうかね」
景兼「まぁ遠回りはしたが、師の贈って下さった言葉の通りに一流を開けてよかったよかった・・・俺の修行の旅は死ぬまで終わらなかったがな!!」
忠明「・・・連載打ち切りの週刊漫画のようだな」
宗矩「そろそろ“栴檀(せんだん)”で斬られますよ」

宗矩「・・・匹夫の剣か」
忠明「む、なんだ」
宗矩(どーして、この人を家康公は採用したのかな・・・)
忠明「その、なんだ、今日は少し失礼が過ぎたかもしれんな・・・以降、気をつける」
宗矩(思慮分別、そんな部分を超越した剣術馬鹿・・・そういうこと、なのか?)

つづく

疋田景兼さんでした。家康とのやりとりに関してのことなど、自分なりにこう思ったのではないかとの予想を立てて書きました。(毎回、そんな妄想が7割方ですが・・・)
栴檀とは、新陰流の技の一つで、疋田陰流で有名な技のひとつで、技としては「相手が上段なら下段に。下段なら以下略」という、相手との呼吸を外してそこを突いて勝つという理屈の技です。『栴檀は双葉より香ばし』ということわざから、技の名前を取ったそうです。ちなみに、栴檀は「白檀」の別名です。あの、仏像などにも用いられる香木です。ことわざの意味としては「才能がある人は生まれたときから違うよねー」という凡人の自分からすると「自慢かよ・・・」とひがんでしまいそうな意味でございます。
これを技の名前に取ったというのは、どんな思いからなのかなーと、空想がふくらむ名前ですな。
あと、疋田さんは後に神後宗治・柳生宗厳・丸目長恵と並び「上泉四天王」と呼ばれています。・・・日本人このくくりかた好きよね。(私も好きです)

また、疋田さんが主人公の漫画『剣の舞・岩明均著』をそっとおすすめしておきます。天然な伊勢守さんとか、戦場を撹拌する伊勢守さんとか、イケてる疋田さんなど、見所多し、です。

次回は・・・資料が少なくてどう広げたものかと思案中の伊勢守の高弟のお一方です。(これでわかる方はわかるかもですが)
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剣豪さ(略)~柳生宗冬のまき~ 

柳生宗冬(1613または1615~1675)
宗矩の三男。通称・又十郎。初名は俊矩→宗冬。
母は、兄・十平衛と同じおりん。左門は異母兄、裏柳生で有名な(違)列堂義仙は異母弟である。
十四歳で家光の小姓として出仕するようになる。
柳生家の資料『玉栄拾遺』によると、最初宗冬は「積聚(せきしゅう)の病」があり、剣術も好きではなかったようだ。
しかし、十八歳の時に土井(利勝?)の屋敷で猿楽を観た折、その芸の妙に感心しそれがもとで兵法への興味も持ち、鍛錬をはじめるようになる。
1639年に兄・友矩が亡くなり、1646年には父・宗矩が他界。そして1650年に兄・三厳が急逝し、三男だった宗冬が江戸柳生家の家督を継ぐこととなる。(このとき、三厳と宗冬に分与相続された遺領のうち、兄の八千三百石を継ぎ、自分の四千石は返上している。)
1656年、四代将軍家綱の指南役となる。1661年には将軍の世子・綱吉から入門の誓紙を受ける。
晩年、池のほとりの柳を見ているとき、ふと池の中のボウフラの動きから兵法の奥旨を開眼し「柳陰」を号するようになったという。


忠明「父上に最も性質が似ているらしいな」
宗冬「ええっ・・・」
宗矩(えっ、嫌なの?ショックだ・・・)

忠明「・・・もう少し言葉を選んでやるといいと思うぞ、父君がしょげている」
宗冬「え、そういう意味の『えー』ではないんですよ。私のようなへっぽこが、最も父上に似ているなんて畏れ多いではないですか」
忠明「だ、そうだぞ。よかったな」
宗矩「やめろ又十郎、自分を卑下するのはよくないぞ」
忠明「言葉と顔が合っていないぞ」
宗冬「もともと、兵法は嫌いだったんです」
宗矩「一時期は本当に、稽古さえ嫌がっていましたからね」
忠明「なぜそこまで嫌だったのだ?剣術は武士とは切っても切れぬものだぞ」
宗冬「わかってはいたんですが、私が物心付いた頃は世の中は徳川の天下で、泰平の世の中へ向けて進もうと言う只中でした、そこで、どうしても疑問に思ってしまったのです・・・“戦わない世の中で、戦うための兵法を学ぶ意味とは?”・・・と」
忠明「ふむ、世代による価値観の差と言うやつか」
宗矩「・・・」
宗冬「それに、新陰流の技は十平衛兄や左門兄がしっかり引き継いでやってくれそうだし、私は気楽に書物でも蒐集しながら暮らしてもいいかなぁ、なんて甘い気持ちで居たのも事実ですね」
忠明「俺の息子でそのような考えなら、足腰立たなくなるまで修行させるところだが・・・」
宗矩「又十郎は積聚(つみあつめる=収集癖)と積聚(せきしゅう=東洋医学での胃の病)の、両方をわずらっておりまして・・・」
宗冬「体の不調を言い訳にして、自分と向き合うことから逃げていたんです。兵法に関しては、兄たちとの技量の差に勝手に劣等感からやる気を無くしていましたし」
宗矩「私も、又十郎の覇気のなさは心配のタネでした。まぁ、ありすぎてどこかの方のように倣岸不遜になっても困り物ですが」
忠明「ぬ、」
宗冬「家光様の小姓として城に上がることになっても、私の中の気だるい感覚は消えませんでした。そんな時です。父上から土井様のお屋敷での猿楽の観劇に誘われたのは」
宗矩「ちょうど、猿楽のシテ方喜多流の流祖である喜多七太夫殿が土井様の屋敷で演ずるとのこと、道は違えども猿楽の道を極めた芸道の妙技を見て、何か感じてくれればと」
忠明「確かにどんな仕事でも一芸に秀でた者の技からは得るところがあるものだからな」
宗冬「実際、観に行って衝撃を受けました。所作の一つ一つは安定していて、観客へ訴えかける迫力も持ち、打ち込む隙もなく、芸道とは極めればここまで素晴らしいものなのかと。そして、これまでの己の兵法への不真面目さがたまらなく恥ずかしいものに思えました」
忠明「父親の思惑は見事に当たったわけだな」
宗矩「ま、又十郎は能にも興味を持っていましたし、一番興味のあることにからめて教えるのが近道だと考えたまでです。猿楽観劇で気付いてくれたのは、我が意を得たりというか、嬉しかったですね」
宗冬「自分の技量でどこまで兄上たちの腕前に近づけるかはわかりませんが、真面目に取組んでみると兵法もとても面白く、また父上が目指す『泰平の剣』も理解しようと務めるようになりました」
忠明「根は素直で、実直な息子さんだな」
宗矩「最初は柳生家の者としての自覚も薄くて心配しましたが、これで安心しました」
宗冬「私とて柳生家の漢です!」
忠明「息子たちが順調に育っていくのは喜ばしい事だ」
宗矩「・・・十平衛は酒乱で柳生に引きこもり、左門は尻一つで寵愛を受けそうになり、頼みの綱は又十郎がまっとうな人間に育ってくれること・・・だったりするんですよ、実際問題」
宗冬「ち、父上!そんなことをぶっちゃけては!」
忠明「次代を育てることの難しさという奴だな」
宗矩「まったくもって、己の未熟さを子供から教えられること多々あり、です」
宗冬「こういうことを言ってはなんですが、兄たちの失敗を見て、それを繰り返さぬように己を戒めたのは事実です。父上ほど、他者との間合いの取り方は上手くはありませんが」
忠明「その努力は、家綱公の代でしっかりと実を結んだようだな。一時は旗本になっていた柳生家は宗冬殿の代で大名に復帰している。これは父親の遺功ではなく、おぬし自身の評価に対する対価だろう」
宗矩「そこに関しては、私が死んだら遺領は息子たちに分与するよう、私が遺言しておいたんです。ただでさえ、一兵法家の家が大名になったことで、風当たりは強かったですし・・・あと大目付的な意味でもいろいろ言われてましたし。後を継いだものに、大名たる器量が無ければ、旗本のままでも構わない・・・そう思いもしていました」
宗冬「そうそう、十平衛兄が急死されて、その遺領を継いだ時にも私の持っていた四千石は“返上した”というよりも“返上させられた”というほうが正しいのですよ」
忠明「大名に復帰したけりゃ、実力を見せろということなのか」
宗矩「そんなところですかね。カッコつけさせてもらえれば、宗矩最後の息子への試し、なんてね」
宗冬「良くも悪くも印象の強い父上でしたからねぇ・・・だったらこっちは実直さとホッとする存在感で勝負ということで」

忠明「そうだ、忘れていたことがあった」
宗冬「なんでしょうか?」
忠明「入れ歯を見せてくれ」
宗冬「いいですよ、こう見えても当時の世界の入れ歯の最先端作品なんですよ!口中医・小野玄入作の逸品ですよ」
宗矩「入れ歯の技術は日本が一番進んでいたなんて、意外ですね」
忠明「これは精巧に出来ている、思わず墓にまで入れてしまうわけだ」
宗冬「いいでしょう~」
忠明「ついでに、列堂義仙について・・・」
宗冬「あんな不真面目な僧侶失格者の名前なんて出すんじゃねぇよ!!あんな馬鹿は弟でもなんでもねー!!」
忠明「!!」
宗冬「はっ、いや、あの、六丸とはその・・・あまり気が合わなくて」
宗矩「びっくりした・・・誰に似たんだそのキレると乱暴になる言葉遣い」
忠明「間違いなくお前だろう!」

つづく

宗冬さんでした。
時代小説だと、なにかにつけて気の毒なキャラだったり、影が薄かったりするわけですが・・・
実際の宗冬くんは、父の跡をしっかりと継いで柳生家を旗本から大名に復帰させた人なのであります。
なんというか、調べて思うことは「宗冬はやれば出来る子」、「大器晩成」という事です。
宗矩の高弟の一人、庄田喜左衛門とは仲が良かったのか彼と兵法談義をしており『宗冬兵法物語』として残っているそうです。機会があれば内容を知りたいものです。
宗矩死後、その遺領が十平衛と又十郎に分与されていますが、それが宗矩の遺志だったかどうかは定かではありません。山岡白宗矩的に、それに自分としても「宗矩がそう望んで」という想像の元の創作です。御了承ください。

余談ですが、兵法と能、というか新陰流と能には関連があり、こんな方を御紹介。
石舟斎の弟子の中に金春氏勝という猿楽士がいます。この人は能の「金春流」家元の息子ですが、兵法の道に傾倒してしまい石舟斎に師事して目録やら口伝やらを伝授されるまで兵法を修めています。あと宝蔵院流の槍も印可持ち。氏勝、このようにあまりに兵法に執心し家芸である猿楽をおろそかにして一時は父から勘当されてしまいます。その後許されて猿楽も相伝されますが、父に先立ち35歳の若さで亡くなります。しかし、やることやっていたようで、五男六女を設けており、金春流は息子たちに継がれました。新陰流の方は伝えられていないようです。しかし・・・35歳で亡くなってて、子供が11人とか・・・

と、長くなりましたが次回も気長にお待ちくださいませ。
柳生家関連は取り上げようと思えばそれこそいっぱい人がいるので、宗矩の高弟関連はまた機会を改めてお送りしたく。ぶっちゃけ「まだそこまで調べきれてませんごめんなさい」ってわけなんですが。
あと、列堂義仙(宗矩の六男)も、厳密には僧侶なので割愛します。

次回からは、「伊勢守とゆかいな高弟たち」です。
実は剣☆聖関連が一番やりたかった、そしてちゃんと説明できるのか一番不安です。生温い目で見ていただければと思います・・・それではまた次回~
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剣豪さ(略)~柳生厳包のまき~ 

柳生厳包(1625~1694)
尾張柳生の柳生利厳の三男。母は島左近の娘で、幼少の頃は母方の姓「島新六」を名乗っていた。
通称は兵助。柳生を名乗るのは、十六歳になった時である。
新陰流宗家四代目。晩年は連也斎と号した。
類まれなる剣術の才能から、兄を差し置いて新陰流宗家を継いだ。(尾張柳生家の家督は、兄の利方が継いだ)
十八歳の時に、尾張藩主の嫡男・光友に拝謁し、その御前で三十数名の腕に覚えのある者と立ち合い、全て勝利している。二十四歳の時、父が隠居し兄が家督を継ぎ、厳包は光友の兵法指南役を譲られた。
二十七歳のとき、将軍家光に拝謁し、御前で「燕飛」の太刀を上覧。また、この場で家光のみが立ち合って江戸柳生の宗冬と厳包が立ち合い、宗冬は右拳を厳包の木刀で叩き潰されたという。(宗冬の血が付いたと言われる木刀が新陰流宗家に伝わると言う)
六十一歳で隠居し、七十歳で亡くなった。その遺灰は遺言により海に撒かれた。生涯独身で、不犯であったという。


忠明「なんだ、本人がいいと言っているのだ。いいではないか」
宗矩「ダメです!」
厳包「俺は望むところですよ、さぁさぁ、大叔父上もぜひ!俺に一太刀・・・」
宗矩「やらねーって言ってるだろ!ドMもいい加減にしとけ!!」
忠明「地が出てるぞ」
宗矩「はっ、身内続きでつい・・・いや、怒鳴ってすまなかったな」
厳包「い、いえ、腹の底まで響く怒号を頂きましたので」
忠明「打たれ強いのだな」
宗矩「・・・っていうか、兵助(利厳)に聞いた話ですが、この子わざわざ家の若党や家人に自分を打ったら小遣いやるなんて言って打たせていたって話ですよ」
忠明「それは・・・変わってるな」
宗矩「忠明殿は打たれる前に打つ方ですもんね」
忠明「当然だ」
厳包「己の身を打たれるという先に、剣の道が開ける気がしているんです」
宗矩「まぁ、その考えはわからないでもないがな・・・程度がちょっとな・・・」
忠明「兵法を真摯に学ぼうと言う気概は良いと思うぞ」
厳包「はいっ、私には、兵法と光友様がおられればそれで十分ですから!」
忠明「尾張の二代目藩主か。確か新陰流の宗家六代を継ぐほどの才能の持ち主らしいな」
宗矩「光友公と厳包殿は、二人で『取り揚げ使い』など決めたりしたそうですしね」
忠明「取り上げ使いとは?」
厳包「初心者向けの基本の太刀のことです。指導する時にやりやすいように、光友様と研究して決めたんです」
忠明「なるほどな、流儀の形を整える作業も二人でとは、仲が良いのだな」
宗矩「あー・・・まぁそれは」
厳包「おなごなど側におらぬでも、光友様と共に剣を学べる時こそが、俺の至福の時間ですから」
忠明「絆が深いのだな」
厳包「はいっ!!」
宗矩(・・・ああ、まぁ、そういうことでいいや、ヘタに追求しないほうがいいな・・・)
忠明「そういえば気になっているのだが、お前の刀は拵が変わっているな」
厳包「あっ、これは自分で考案しました。目貫きを逆にして、右手で持ったときに手だまりが良いように」
宗矩「それに、鍔の意匠がいいね。透かし彫りに、柳生の秘伝の意趣を込めているな?」
厳包「はい、そうです!さすが大叔父上、この鍔の秘密に気付かれたのですね!」
宗矩「ん、まぁな、ははは」
忠明「さすがに、俺にはわからんな。だが、三角と波を組み合わせた、綺麗な意匠だな」
厳包「自分なりに実用性を持たせて、さらに美しさも少々添えてみました。ちなみに、愛称は“かごつるべ”ですっ」
忠明「ほう、俺の刀は“なべづる”という」
宗矩「・・・」
厳包「大叔父上は―」
宗矩「・・・まぁ、俺の刀なんてどうでもいいじゃないか。それより、ほら、宗冬との一件でも」
忠明「そうだ、それだ!一体、どういう経緯でそんなうらやましい勝負が実現したのだ?」
厳包「えっ・・・上様が『宗冬と厳包の立ち合いが見たいぞ!』とおっしゃたので」
宗矩「・・・家光様」
忠明「ぬぅぅ、なんで俺と柳生が存命のうちにそれを思いつかんのだ!!」
宗矩「あなたと私じゃ、大惨事になるからでしょうねぇ」
厳包「実際は、立ち合いではなくて『大転』という型を演武したのですが、俺が未熟で打ち込みを早くし過ぎて、宗冬殿の拳に当たってしまったんです・・・申し訳ないことを致しました」
忠明「ああ、確かに型を演じていて仕損じるのは失敗だな」
宗矩「家光様お得意の突然の思いつきで、型を合わせる時間があまりなかったのでしょうね」
厳包「いえ、どんな理由であれ、ただでさえギスギスしていた江戸柳生のご当主に怪我をさせてしまうとは・・・ああ、あの時お詫びに俺の身を捧げていればッ・・・」
宗矩「いいから、捧げなくていいから!本当にその嗜好はヤバイから!!」
厳包「大叔父上・・・このダメな大甥をもっと叱ってください!」
忠明「逆効果のようだな」
宗矩「はぁぁ・・・」

忠明「で、どうなのだ」
宗矩「何がですか」
忠明「厳包殿と光友公は・・・衆ど」
宗矩「そんなの知るわけ無いでしょ」
忠明「友矩と家光様も、あの二人程の仲なら問題なかったのかな」
宗矩「兵法のみで繋がる主従ねぇ、そうそうありえないでしょうね・・・しかし、そうであったなら・・・どうでしょうね」

つづく

またやってしまいました。すいません。でも、柳生の三男です。
尾張柳生の二代目(兵法的に)の、柳生厳包です。連也斎と言うと、剣豪小説などではおなじみでしょうか。
意外にも、牡丹の花を育てる趣味とか、陶芸なども嗜んだ文化的な一面も持っていました。
そして、連也斎は『新陰流兵法目録』という口伝書も残しているのですが、なんと十二、三歳で完成させたと言われ、さらにこれを終生他人に見せることはなく、厳封して「開けるなよ?絶対開けるなよ?開けたら摩利支尊天の罰を受けて安らかに死ねるから!」と言って甥に渡したんだとか。その後、代々の当主は開けたくなるのをガマンして、柳生新陰流の衰退を危惧した十一代目柳生厳春が「死んでも構わない!」と開けるまで開かれませんでした。
徳川光友とは本当に兵法の師弟として、キャッキャウフフしていたそうです。衆道はあったか知りません(笑)

と、「宗矩の刀」ですが、ネットで見たら「宗矩拵・伊勢千子村正」というのがありました。宗矩の刀だと、他に「柳生宗矩天正打刀拵・伯耆」というのも見つけました。柳生家は拵の模造刀もあっていいですね・・・一刀流もないかなぁ。小野さんとか。ぜんぜんメディアに媚びそうも無いところが小野さんとこのいい所でry

さて、次回は本当に柳生の三男、宗冬殿です。
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剣豪さ(略)~柳生友矩のまき~ 

柳生友矩(1613~1639)
宗矩の次男。十平衛の母はおりんであるが、友矩は側室の生んだ子供である。
通称は左門。剣術にすぐれた才能があり、また美形であることでも有名だった。
色々とあって致仕した兄・十平衛にかわって家光の小姓として仕えることとなるのは1627年のこと。
その後1634年には家光の上洛に、父と共に供奉し京都で徒士頭に任じられる。京都からの帰りには、駿府で従五位下・刑部少輔を受任。さらにこの年の冬に山城国相良郡に二千石を与えられる・・・というように矢継ぎ早に出世の道が開いてくる。
ところがその後、友矩は病を発して致仕して柳生の里に戻り、その後病が原因で27歳で没した。
彼もまた、その出世や急な病が後世の人の好奇心をくすぐり、様々なネタにされている。

友矩「ごほっごほっ」
忠明「む、大丈夫か?」
宗矩「ほっといて構いませんよ」
忠明「柳生、己の子供が病と言うのになんという冷たいことを!」
宗矩「そうやって病で同情を誘うのが左門の“病気”なんですよ・・・」
友矩「己の身の回りにある状況を最大限に利用することも、兵法の一つですからね」
忠明「・・・どういうことだ?」
宗矩「今の忠明殿のようになるのです、左門を見れば、皆」
友矩「みなさんとても優しくしてくださって・・・人って根底はみな優しさで出来ているんですね」
忠明「なんだ、優しくされることはいいことだろう」
宗矩「人の好意を否定するつもりはありませんよ。ただ・・・」
忠明「?」
宗矩「一番優しくして下さるのが・・・」
友矩「家光様なのです、ふふっ」
忠明「ふむ、家光様の覚えもめでたいとは良いことではないか」
宗矩「よくない、少しもめでたくないっ・・・!」
友矩「兄上の代わりにお仕えすることとなったこの身ですが、家光様は格別大切にしてくださいます」
忠明「家光様に格別、大切に・・・」
宗矩「そうです。ここまでくればいくら様々な事にニブい忠明殿とておわかりでしょう」
忠明「うむ、思い出した。尻一つで十三万石とかいうアレだな」
宗矩「その話はやめて!!」
友矩「やだなぁ、そう簡単にお触りなんてさせませんよ」
忠明「そうなのか?」
友矩「私は病弱が売りですから。見るのは良くても触ったら私は死ぬかもしれないとご注意申し上げておりましたから」
忠明「ふむ、しっかりしている」
宗矩「感心している場合ですかっ!よりによって、よりによって・・・!」
忠明「愛人を優遇するというのは、傾きかけた国でよくあることらしいな」
宗矩「たった三代で幕府が傾いたらたまりません!」
忠明「おまけに柳生家への風当たりも強くなってしまうしな」
宗矩「ううっ、胃が痛い・・・」
友矩「私も家光様も、単に親しい友人として仲良くしていただけなのですが、お互いにあまりにも周囲の反応というものに対して無知すぎたのです・・・気付いた時には、状況はもうどうしようもない物になっていました」
忠明「衆道の関係があったにせよ、ないにせよ、すでに周囲からは『衆道の関係で優遇されている』と認識されてしまっているわけか」
宗矩「十平衛の一件もありましたし、状況は非常によろしくありませんでした。柳生家だけが潰れるならまだいいですが、家光様が関わっている事であの方の将軍としての適性すら疑われかねない。三代目になっても、徳川幕府はいまだに不安の種をいくつも抱えた状態でしたから」
友矩「本当に申し訳ないことをしました・・・どうせ病で長くない人生なら、取れる相手から搾れるだけ搾って派手に人生を生きてやろうと思ったのがそもそも間違いでした・・・」
忠明「本当にしっかりしているな」
宗矩「方向性が明らかに間違っていますがね・・・誰に似たのやら」
忠明「お前だろ」
友矩「兵法を武士の心を鍛えるもの、そして政に活かす為につねに働いておられた父上のことは、尊敬しています」
宗矩「いや、その、なんだ・・・ははは」
友矩「そうして、公で働かれた後は、ご友人の家を訪ねて踊ったり、煙草を思う存分満喫なさって、仕事の疲れを適度に発散される・・・私もはじめから父上を見習って上様とお付き合いすればよかったと反省しています」
宗矩「・・・ほめてるのかなぁ、それ」
忠明「まったく、父の行いを見て良い所は真似なければならんぞ」
友矩「おっしゃるとおりです」
宗矩「いや、それはどうだろうか」
忠明「つまり、公の場で会わず、城の外でひっそりと会えば問題なかったのだな」
友矩「あっ、それ、いいですね!」
宗矩「よくない!!会う場所が変わっても根本が直ってない!」
忠明「むぅ、難しいのだな・・・さすが、衆“道”と言うだけあって、奥が深い」
友矩「さすが、小野様は目の付け所が違います。私も精進しなければ」
宗矩「・・・頭も痛くなってきた」

忠明「最近、具合が悪そうだな」
宗矩「・・・身内というのは、鏡を見ているようで」
友矩「申し訳ありません、父上。私が不出来な息子なばかりに」
宗矩「わっ、左門、こっちは楽屋だから」
友矩「家光様に気に入られて、出世したら、父上がもっと私を見てくださると思って・・・ごめんなさい!」
宗矩「こ、こら左門、泣くな、抱きつくな、こら、やめなさい!」
忠明「・・・柳生、まさか、お前・・・そういう禁忌の」
宗矩「ない!ないないない!私が好きなのは快活で知性のある女性ですっ!!」
忠明「真っ赤だぞ」
宗矩「・・・なにせ、側室にそっくりなもので。忠明殿こそ、真っ赤じゃないですか」
忠明「うっ、だって・・・横顔の、泣き顔がその、おなごのようで」
宗矩「我が子ながら・・・どうにもこうにも・・・」

つづく

宗矩親子はネタいっぱい。というわけで次男です。
柳生家の資料である『玉栄拾遺』には友矩の死後、彼の愛用していた櫃の中から「十三万石(一説に四万石)」の書き付けがあったそうで、宗矩が内々に家光に返上したらしいです。
病で急死というものほど、怪しいものはない上に、この疑惑の書き付け・・・伝奇作家が好んで題材に使うのも無理からんと思います。
また、同じ資料に彼の資質について「性質無双、文才ニ富、又新陰ノ術ニ長シ・・・」とあります。美形で文才もあって、剣術も長じているという、そりゃ惚れられてもしょうがないよねという書き方もされています。まぁ、あくまでも柳生側の資料なので、鵜呑みには出来ないでしょうけれども。

ちなみに、山岡先生の『柳生宗矩』では、友矩が家光といい仲になっているらしいことを友矩から聞くところで、息子の容姿を見て思わず顔を赤らめる宗矩の姿が描写されています。どうでもいい話ですが。

さて、次回は柳生の三男です。
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