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行き当たりばったり 道中日記

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信長の野望に登場する戦国武将・剣豪・その他徒然の、ゆるい風味の紹介動画を作成しています。

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剣豪さ(略)~柳生三厳のまき~ 

柳生三厳(1607~1650)
柳生宗矩の長男。通称の十平衛で一般に知られる。幼名は七郎。
父を超える兵法の天才と言われ、講談や後世の創作にも柳生家で一番の露出を見せている。
実は兵法だけではなく、書画にも才能を発揮し和歌や父を描いた肖像画も現存している。
十歳で将軍・秀忠に拝謁し、十三歳で秀忠の嫡子・家光の小姓となる。しかし、20歳になった頃に勘気をこうむって遠ざけられ、自ら致仕して小田原へ移り、その後柳生の里へ帰り十二年間、新陰流の流派の故地を訪ねたりしながら兵法の修行をしていた。(と、自著に記されている)
1638年、許されて再度、書院番として出仕する。1646年、父が亡くなりその家督を継いだ。父の所領は三厳に八千三百石、弟の宗冬に四千石、末弟の六丸(列堂義仙)に二百石と分与された。
三厳はしかし家督を継いで四年後に致仕して、柳生へ帰る。そして1650年、山城国の弓ヶ淵にて鷹狩をしていた折に急病を発し亡くなった。
原因が不明瞭な勘気、十二年の空白の時間、突然の死、と想像を掻き立てるネタで現在もドラマに漫画にアニメにひっぱりだこである。
それと、隻眼の剣士として有名だが、信頼できる資料に彼が隻眼であるという記述は無い。


忠明「貴様ら・・・いい加減何かしゃべれ」
宗矩「今日はこの辺でお開きということに」
三厳「忠明様、向こうで稽古でもしませんか?」
忠明「・・・斬るぞ」
宗矩「ま、まぁ、少し話をするくらいなら」
三厳「忠明様がおっしゃるなら、付き合ってやってもいいですけど」
忠明「相変わらず、微妙な親子関係だな」
宗矩「たとえ親子でも、やはり性格の違いはありますし」
三厳「俺は兵法に興味はあっても、親父のような兵法を為政者として活かすというやり方にはあまり興味がないもので」
忠明「うむ。俺もそういうややこしいことはよくわからん」
宗矩「・・・自分の理想を実現する為にあれこれ奔走していましたから、その分家に居る事も少なくて、特に十平衛とはじっくり腰をすえて話す機会が少なかったとは思います」
三厳「俺、生まれたときは柳生の里にいて、母上やお祖母様と一緒にいたしなー。小さい時は親父の印象って薄かったですね」
忠明「なるほどな。だが、柳生も秀忠様に十平衛を顔見せしたり、家光様の小姓に上げたりと色々と手をかけていると思うぞ」
宗矩「忠明殿にそう評されると意外ですね。確かに、自分なりに息子の将来を思って進めたことですが・・・周囲にはどう映ったでしょうね」
三厳「秀忠様に拝謁したのも、家光様の小姓になったのも、俺も承知の話だったんだから誰に何を言われても気にしなかったぜ。堅苦しいとこかと思ったら、家光様は結構気さくで、暴れても喜ばれるくらいだったしな」
忠明「確かに家光様の行動には元気すぎる節があったそうだな。俺の前ではあまりそういった態度は見せられなかったのだが」
宗矩「・・・そりゃ、忠明殿ですからね。それにしても、十平衛が家光様に気に入られたのは嬉しいですが、つるんで暴れまわるので、お側の者がみな苦労させられ、私は変な汗ばかり出て」
三厳「家光様の周囲がおとなしい奴らばかりなのがいけないんだ。青春のアレコレを発散できないから、無駄に衆道なんかにのめりこんじまうんだ。俺は上様のためを思って」
宗矩「思ってなんだ!?夜な夜な城の外に出て、浪人を斬る、そのような発散であって良いものか!!」
忠明「だが、人を斬るのはいい修行になるぞ」
宗矩「あんたは黙っててください!」
三厳「親父は、上様をあんまり丁寧に扱いすぎてるんだよ。年寄りにゃ理解できねぇ若者の悩みってものがあるんだよ」
宗矩「くっ・・・青春の色々の発露なんて・・・舞えばいいだろうが!」
忠明「ふむ、それで十平衛は勘気をこうむった事になって柳生に引っ込んだのか」
三厳「そうですね。あんまりやると親父も気の毒かなって思いましたし。それに、兵法の工夫も色々としたかった・・・こいつが本音だったり」
宗矩「そうでなければ座禅して心の整理をするとか・・・って、聞けっ!」
忠明「柳生の里ではずっと兵法修行をしていたのだな。感心な事だ」
三厳「正直、家光様の側に居て、様々な出来事と色々な人間に触れて・・・そこは俺の場所ではない気がして。逃げる口実が欲しかったのかも知れません」
宗矩「お前は己なりに、小姓としての務めを行おうとしてた。それはわかっているつもりだ・・・城を家光様と出たのも、お前なりに世情や兵法のことを学ばせようという考えだということもな」
三厳「お、親父・・・」
宗矩「だがな、大酒飲んで暴れる所はフォローのしようがなかった!!」
三厳「くっ、沢庵のおっさんと同じこといいやがって」
忠明「深酒が過ぎるのだったな。兵法者は酒に飲まれてはいかんぞ」
三厳「違いますよ、俺が酒を飲んでやっていたんです。あれも修行で」
宗矩「こそこそと動くなら手の打ちようはある。だが、宴の席で暴れては・・・どうもできんわ!馬鹿息子!」
三厳「ううっ、だから自分から役目を降りたんだろ」
忠明「柳生はその辺の公私は嫌味な位分けているから、大事な席での不調法はないしな。己をいかなるときも律することが、兵法者としても必要だぞ」
三厳「はい・・・親父には悪いことをしたと思っています。自分でも抑えきれない部分があるのが情けなくて、そのための柳生で己を叩きなおそうと・・・」
宗矩(さっきから、よそのお父さんには素直に答えて・・・何なんだ・・・ちくしょう)
忠明「自分の失敗を見直せるのは、よいことだ。俺と立ち合った時の事を覚えているか?」
三厳「はい。あの時は、何も出来ませんでした・・・まさにあの時の忠明様は俺の目指した水月の位を表されていて、感動しました」
忠明「あの若さで、それを見抜いて兜を脱げる、たいした者だ」
三厳「そんな、もったいないです」
宗矩「・・・そんなに」
三厳「親父?」
宗矩「そんなに忠明殿と気が合うなら・・・小野家の子供にでもなればいいだろ・・・」
三厳「ちょ、何を言ってるんだよ親父?」
忠明「悪いが、うちにも助九郎という手のかかる阿呆がいるのでな。他の者にかかわずらっているヒマは、ない」
宗矩「・・・」
三厳「親父、別に俺はそんなつもりは・・・!」
忠明「案ずるな。なんだかんだで、お前の父も、お前と同じように肉親を思い遣っていた。それだけのことだ」
宗矩「勝手に変な代弁をしないでくださいよっ」
忠明「真に興味の無い息子ならば、わざわざその者が書いた稚拙な兵法書にわざわざ添削を付けたりはすまい。中身を読んで、おかしいところをけなしたりもすまい」
宗矩「・・・っ」
三厳「お、親父・・・」
宗矩「う、うるさい!私は、厳格で、大きくて、憎まれる父でいいのだー!!」
三厳「あっ、親父ー!!」
忠明「色々と気持ちが耐えられなくなって逃げたか」
三厳「親父・・・俺にとっての親父は、調子に乗って踊り狂ったり、年甲斐も無く煙草に固執したり、働きすぎて血を吐く、そんな感じなのに」
忠明「・・・それはそれで、聞いたらきっと落ち込むだろうから、いなくて良かったな」
三厳「繊細ですよね、うちの親父って。そこが好きですけどね」
忠明「好きでなければ、似顔絵を描いたりはしないだろうしな」
三厳「普段は言い合いばっかりでしたが、ケンカするほど仲が良かったって、ベタですがね」

忠明「ところで・・・弓ヶ淵では一体何があったのだ?」
三厳「ふっふっふ、それは秘密です」
忠明「むぅ、柳生家は秘密が多くて楽しそうだな」

宗矩「十平衛の描いた・・・似顔絵か・・・額に入れて隠しておこう」

つづく

・・・相変わらずまとまりの無いアホ会話になってしまい・・・すいません。

創作だと何かと対立することの多いこの親子。
実際はどうだったかわかりませんが、残されたものからは意外と十平衛はお父さんを尊敬してるよね?と思わせてくれます。
十平衛は二代目がぽちゃぽちゃのぷりんぷりんのぼんぼーんだったり、宗冬に暗殺されたり、女体化されたり色々と忙しい方ですよね。
たまには親父とかっこよく共闘とかしないのかなーと、そんな話が湧いて出ないかと楽しみにしてます。

次回は柳生の次男です。
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剣豪さ(略)~柳生宗章のまき~ 

柳生宗章(?~1603)
生年は1566年とも。石舟斎の四男で、宗矩の兄。
通称・五郎右衛門。
1594年に、父と弟・宗矩と共に徳川家康に招かれたが、この時には家康に仕官はせず、弟の宗矩が徳川家に仕官した。その後小早川秀秋に仕え警護役を務めたが、関ヶ原の戦いの2年後、秀秋の死によって小早川家は改易となり宗章も浪人してしまう。
このとき、中川一忠の家老・横田村詮(むらあき)に客将として招かれる。村詮は石舟斎の門人であったことから、その縁で招いたという。しかし、横田村詮はその才覚を妬まれた主君の側近らの甘言により暗殺されてしまう。
宗章は村詮の息子(または弟)の主馬助らと共に屋敷に籠もって奮戦したが、最後は槍を持ち、刀を幾本も携えて打って出て、新陰流の技の一つである『逆風』などを振るって戦い18人を斬って勇戦するも討ち死にした。


宗矩「五郎兄!!」
宗章「似てただろ?俺の迫真の新兄の真似」
忠明「真に迫っていたぞ」
宗矩「まったくもう・・・」
宗章「可愛い弟に久々に会うから、ちょっとはしゃいでみた」
忠明「二人は仲がいいのだな」
宗矩「年が近かったですし、話しやすかったというか」
宗章「遊びやすいんだよな~、又右とは」
忠明「宗章殿は厳勝殿とも年が近いのではないか?」
宗章「おう。新兄とは物心ついてから一緒に親父のシゴキを受けたもんだ」
宗矩「そう言えば、五郎兄は怪我をする前の新兄を知っているんだよな」
忠明「怪我の前と後で何か変わったりするのだろうか」
宗章「特に変わらなかったなぁ。もともと責任感の強いし、打たれ強いし」
宗矩「そうそう。普段は杖をついて歩いているけど、怒ると杖を振り上げて走ってくるし」
宗章「結構早いんだよな・・・最後は捕まって座らされて説教だった」
宗矩「今となってはいい思い出ですね」
忠明「宗章殿は兄上が怪我を負われて、家督を継ぐのは自分だとは思わなかったのだろうか?」
宗章「いざとなりゃ、そうなるのかな、とは思ったけど。又右が立派に成長したからいいんじゃねーかな、と考えなおした」
宗矩「それで、親父と密かに仕官の話を・・・」
宗章「だって、お前『世の中の荒れっぷりを見たら嫌になったからもう知らん』とか言って里に引きこもってたろ。伸びしろがあるのに勿体無いって思ってさ」
忠明「ほう、柳生がそんなに消極的だったとは、俺の見ていた柳生からは想像できんな」
宗章「又右は意外と繊細な所があるからな。そのぶん、物事に合点が行くとしっかりやりこむんだが」
宗矩「お、俺の話よりも自分の話しをしろよ!」
忠明「結局、家康様に招かれた時は宗章殿は仕官されず、小早川家に仕えたがその辺りをお聞きしたい」
宗章「小早川家で、殿の身辺警護を探していて、俺に声がかかったんだ。別に関ヶ原の戦いに関連して徳川へ寝返りを促すわけでも、又右に反発してってわけでもないんだぞ?」
宗矩「小早川殿への関ヶ原での裏工作は、黒田殿・浅野殿の両氏が行っていましたし」
忠明「関ヶ原の戦の後も、改易されるまで仕えておられるしな」
宗章「俺の腕を見込んでの警護役だったんだ。最後まで務めたさ。ただ、やはり裏切り者の烙印を押されての心労は秀秋様の心を押しつぶしてしまったのだろうな・・・」
宗矩「大谷吉継殿の祟りで取り殺されてしまったというウワサも流れましたね」
忠明「たたり・・・」
宗矩「忠明殿?」
宗章「ははは、吉継殿の幽霊は見ていないなぁ」
忠明「う、うむ。では次に米子の横田村詮殿のもとへ招かれた話を」
宗章「なにしろ色々とあった小早川家に仕えていたし、ほとぼりが冷めるまでは兵法修行でもしようかと思っていたんだが、親父の門人だった横田殿が是非にと招いてくださったんだ。さすがにいきなり仕官はなんとなく気が引けて、客将って扱いにしてもらったが」
忠明「一応聞いておくが、徳川に仕官するというのは」
宗章「そりゃないな。俺がそんなことをすれば、世間は柳生家は小早川を寝返らせる為に俺を潜ませたと邪推するのは目に見えている」
宗矩「それは私も考えました。だからあえて私から五郎兄にそういった働きかけはしませんでしたよ」
忠明「だろうな・・・ところで、同門のよしみで招いてくれるのは、嬉しいだろうな」
宗章「ああ。横田殿には感謝しているよ」
宗矩「だから最後まで・・・」
忠明「・・・義理を返したというわけか」
宗章「横田殿は、人格・才覚共に立派な人物だった。それを妬んで主君に讒言し、あろうことか暗殺するなど、武士のする行いではない。少しでも、それを行った奴らに、思い知らせてやりたかったのだ。おかげさまで、俺の意地も貫けたし、柳生の男は義理に死ねるという誉も得たし、いい人生だったと思っている」
宗矩「・・・」
忠明「柳生・・・」

宗矩「って、あなたが泣いてどうするんです!」
忠明「悲しいものは悲しいではないか。肉親が死んだら泣くではないか」
宗矩「いや、私の兄なんですけど・・・(あんたが泣いたら余計に泣けないじゃないか、もう・・・)」

宗矩「ところで・・・忠明殿ってもしかして幽霊ダメなほうですか?」
忠明「断じて違うぞ!!!」
宗矩「・・・そうですか」

つづく

宗矩のお兄さんその2です。
『明良洪範』(1684年頃書かれた)という資料には、なぜか宗章のことを「宗矩の弟」と書いています。話の内容も「松平直政のところへ出向いた時」の話で、この松平直政は生まれたのが1601年なので色々と時期が合いません。
「宗矩の弟」って・・・一体誰なんでしょうね。推測するに、宗矩の息子のいずれかではないかと考えられますが。
ともあれ、石舟斎の息子の中ではその最後の印象からも義理堅いという印象を受けます。そういえば、彼が招かれた横田村詮は家康によって中村一忠の後見役&家老として派遣されているんですよね・・・つい、宗章も実は徳川とずっとつながりがあったんじゃ、とか妄想してしまいます。


多少バテ気味でゆっくり更新ですいません。しばらくはこの調子になりそうです。
次回もまた「柳生の長男」の登場の予定です。
柳生家が終わったら、徳川の剣豪スペシャルを行う予定です。

それと、今年のコミケですが友人に便乗して出ようと思いましたが、お盆を優先せねばならない為出られません。すみません。
というか、同人活動自体そんなにできない状態なので、余ってる本をどなたかにお願いして置いていただく位なものです。一応、今やってる剣豪さんが終わったら、剣豪図録みたいな本にでもまとめてみようかなぁとは考えています。
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剣豪さ(略)~柳生厳勝のまき~ 

柳生厳勝(1552~1616)
石舟斎の長男。通称・新次郎。
1571年に宗厳、厳勝父子は松永久秀の軍の一員として戦った。この戦いにおいて厳勝は鉄砲で腰を撃たれ、体が不自由となってしまう。
その後は父と共に柳生の里に暮らした。
不自由な体となったと言われるが、厳勝55歳のときに父より『没茲味手段口伝書(もつじみてだてくでんしょ)』を相伝されており、怪我をしてからも兵法修行はかかさなかったと思われる。
柳生家の記録には「客中(よその土地で)亡くなる」とあるが、実際は亡くなるまで柳生の里にいたのではないかと考えられている。


厳勝「別に叱りに来たのではないぞ?」
忠明「そうだ、兄上がせっかく来てくださったのだぞ。もっと嬉しそうにできんのか」
宗矩「いや、新兄を見ると、とりあえず謝っておこうかなって思って・・・」
厳勝「又右!」
宗矩「は、はいぃ!」
忠明「むぅ・・・なんという気迫のこもった怒鳴り声だ、腹にずんと響く」
厳勝「お前は柳生家の当主なのだぞ、そのように情けない態度でどうする!」
宗矩「ご、ごめ・・・あ、すいませ・・・ううっ」
忠明「・・・や、柳生?」
厳勝「ふぅ、どうにも、うまくいかんな」
忠明「二人は仲がよくないのか?」
厳勝「大切に思うからこそ、叱りたくもなるのだ」
宗矩「単に、頭が上がらないだけです。新兄のことは尊敬しているくらいですよ」
忠明「そうなのか、しかし、距離感が微妙な気が」
厳勝「どうしても、年の差がなぁ」
宗矩「なんと言いますか、兄というよりは親のような感覚がありますね」
忠明「む、20近く離れているのだな」
厳勝「さすがに、40を過ぎての子供など、父上と母上の仲の良さには少しアキレたものだ」
宗矩「確か、俺が生まれたのは・・・」
厳勝「1月にお前が生まれて、8月に私が大怪我をしたな」
忠明「嬉しいことと悲しいことがいっぺんに起きた年だったのだな」
宗矩「塚原ト伝先生がお亡くなりになったのもこの年ですね」
厳勝「ト伝さまがお亡くなりになったのは3月、お前が生まれたのは1月だ。間違えるなよ?」
宗矩「い、いや、いくら俺でもあの方の生まれ変わりだなんて、そんな大それた妄想はしませんよ」
忠明「十平衛が石舟斎殿の生まれ変わりだと言われているから・・・」
宗矩「違いますっ!」
厳勝「まぁ、結果的に印象に残る出来事が重なっただけだ。私は重傷を負ったが、それでも一族が鎮痛にならなかったのは、五郎右や又右が居たからだ」
宗矩「新兄・・・」
忠明「家を継いでくれる子宝が居てくれるのは頼もしいものだろう」
厳勝「さよう。我が一族の良いところは、危機に直面しても折れぬところ。たがいに励まし、補い、生き抜けるしぶとさだと思う」
宗矩「里のみんなが一族のような結束ですからね」
忠明「なるほど、鎌倉の頃から、柳生一族と里が奪われても取り返し、生き続けているのもそのたくましさなのだな」
厳勝「だからこそ、腰を鉛玉で撃ちぬかれた位で腐ってはおれぬ。動かぬならば、動くようにするまででな」
忠明「己にも厳しいのだな」
宗矩「ほんと、名前の通りでしょう?周囲にもすごく厳しいんですよ、改名しろって何度も思って・・・」
厳勝「・・・否定はしない。だが、誰かが叱る役目を負わねばならんからな」
忠明「石舟斎殿がいるではないか。父は叱ったりするだろう」
厳勝「フン、父上は父上で、末の息子はかわいいと見えて甘やかそうとする・・・だから代わって私が厳しく締めるのだ」
宗矩「実際、家の切り盛りは親父じゃなく、新兄がまわしていたようなもので」
忠明「なんだ、なら家督を継いでもよかっただろうにな」
厳勝「それは違う」
忠明「と、言われると」
厳勝「確かに、私は生半可な兵法者よりも刀をうまく扱えるし、家の切り盛りもする。しかしな、それは柳生の里という中にいるからこそなのだ。外に出てしまえば、私はやはり怪我をひきずった不遇な侍でしかない」
忠明「ふむ、そういうことか」
厳勝「領地を全て失い、家人も養えなくなって、家族も動けるものは他方へ出て行くことになった。その時も、私は柳生の里を動くことが出来なかった。いくら手の者に探らせて各地の情報を得ても、それは間接的なものだ。又右は広い世の中を見て歩いた。それは大切な事だ。世の流れを見て、家という舟を安全に進ませるには、やはり」
宗矩「新兄っ!!もう、もう十分です、勘弁して下さい!!」
忠明「なんだ、褒めてもらっているのだからいいではないか」
宗矩「いや、必要以上にハードル上げられるとあとが怖いって言うか、褒められると気持ちが悪いって言うか」
厳勝「・・・そうか、では色々と思うところもある。望むとおりに叱ってやろう!」
宗矩「うわーっ、ごめんなさいー!!」

忠明「本当に細かいところまで叱られたな」
宗矩「いやー、怖い兄貴なんですよ。ほんとうに」
忠明「しかし、嬉しそうに叱られているように見えたが」
宗矩「そんなことありません。まったく、身内を呼ぶのはやめて欲しいですよ」

つづく

柳生家の長男です。間違ったことは言っていません。
先日御紹介した、柳生兵庫助利厳のお父さんです。
偶然でしょうが、宗矩が生まれた年に重大な怪我で体が不自由になってしまうという不運に見舞われています。
その後の暮らしぶりはあまりわかりませんが、父と共に柳生の里で暮らしていたようです。
ここは兄弟のセオリーでしっかり者のイメージで描いています。親子ほどの年の差で、兄弟というのはどうだったんでしょうね。色々と想像がふくらみます。

次回はまたも宗矩の兄弟が登場です。

拍手ありがとうございます。いろいろとしょうもないネタが多いですが、がんばります。
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剣豪さ(略)~小幡さんの補足項目~ 

Obata5.jpg

御無沙汰しております。小幡景憲でございます。
夏場にこのようなむさ苦しい姿で失礼致します。

なんか、「主馬のことを補足し忘れたから説明しろ」と言われたんですが・・・それこそ柳生の方が説明をしたほうが手っ取り早い気もしますが・・・

あそこは尾張柳生家との軋轢もありますし、色々と大変なのでしょうな。
大名ともなると、背負い込むことが増えて難儀なものですね。

おっと、余計な話はこの辺にいたしまして、「主馬」殿のお話ですな。

主馬殿は、佐野主馬という氏名で、生まれは朝鮮と言われています。もともとは、氏もない素性のわからぬ者だったと言う話もありますな。
彼は優秀な武士であったらしく、柳生家の女性と結婚し「柳生」姓を名乗れるようになります。
老職にもついたようですから、柳生家からもだいぶ評価されていたようです。

尾張柳生の利厳殿と、江戸柳生の宗矩殿が決定的に不仲になる原因は、前回のお話にあったように利厳殿の妹君が主馬殿の妻になったということが原因です。
この利厳殿の妹君は、厳勝殿の長女であり伊賀国山崎惣左衛門に嫁ぎましたが、ゆえあって離婚してしまいます。

このケンカ別れの原因について、ちょっと考察してみましょう。

一、兄である利厳に相談をせずに、宗矩の一存で嫁ぎ先を決めたこと。
一、結婚相手が外国人であること。

主にケンカの原因はこの二点でしょう。特に、最初の一点はマズイでしょう。
叔父さんが勝手に縁組まとめて事後報告してきたらそりゃー私だって怒ります。
宗矩殿は、肉親ではないわけですから。
それに加えて、結婚相手はよりによって海の向こうの出自の人。国際結婚は400年後でも色々と大変だと聞きます。

新陰流の宗家は利厳殿が継ぎましたが、柳生家の家督は宗矩殿が継いでいます。
柳生家全体として見れば、現在の家長である宗矩殿の一存で縁組を決定すること自体は問題がないようにも見えますが・・・

恐らくは、感情の問題もあるかと思います。
兵法の流れを継ぐ利厳殿に共感する者と、家を継いだ宗矩殿に共感する者と、派閥のような構造が出来上がっていたのではないでしょうか?
例え上に立つ利厳殿と宗矩殿に対立しようとする気持ちがなかったにせよ、です。
家中でそれがいざこざとなり、決定的になれば、それは上に立つものの責任問題にもなりかねません。
きっかけが何にせよ、流派を継ぐ者と家を継ぐものは、つながりを絶たねば存続できなかったのかもしれません。

あと、これは個人的なツッコミですが・・・
肝心の、利厳殿のお父上・厳勝殿はこの縁組のことを事前に知っていたかどうか?そして、この縁組についてどのような意見を持っていたのか?それについての言及はありませんよね。
自分の娘が、父親の意見を介さずに嫁がされたら、兄よりも父が最初に出てくると思いますがねー

この一連の出来事も、柳生を守るための方策のひとつだったら、柳生家すごいですねー

うちの宗家の人にもこれくらいの甲斐性があったらねぇ・・・

いやいやいやいや!ああいう人だから逆にイイ!純真でまっすぐで融通の利かないところがいい!

以上、不肖小幡でした。
次回の柳生新陰流はどなたがいらっしゃるのか?お待ちください。
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剣豪さ(略)~柳生利厳のまき~ 

柳生利厳(1579~1650)
柳生石舟斎の長男・厳勝の次男。通称は兵庫助。号は如雲斎。
新陰流宗家第三代。
その風貌、剣術の才能が祖父をして「ワシに似ている」と大変可愛がられ、その兵法の技の全てを祖父より伝授された。また、小笠原軍法や穴沢流棒術、新当流槍術なども極めている。
一方で性格には気難しい面があったようで、加藤清正に仕えたが、同僚と争いになり彼を斬って加藤家を辞してしまい、その後、福島正則など多くの大名に声をかけられるも仕えることは無く、修行の旅を続けた。
1615年、尾張徳川家の家老成瀬正成の推挙により徳川義直に仕えることとなる。そして、利厳の新陰流は尾張藩の御流儀となり、俗に「尾張柳生」と呼ばれる。


忠明「お前が新陰流としては分派なのは知っている」
宗矩「ですから、兵法家としての勝負は兵介となさると良いかと」
利厳「ダメですよ、叔父上。次郎右衛門殿は将軍家兵法指南役である叔父上との立ち合いを望んでおられるのですから」
宗矩「・・・代わってくれ・・・ないだろうな」
利厳「俺だって主君持ちですから、危ない橋は渡れません!」
宗矩「ううっ・・・」
忠明「義直様とはうまくやれているようだな」
利厳「はい。あの方は兵法への理解と飲み込みが早くて、才能がありますから、指南していて楽しいですね」
宗矩「どうにか落ち着ける場所が見つかってホッとしてます」
利厳「あっはっは、御心配をおかけしました」
忠明「最初の仕官で、意見の相違で相手を斬る、か・・・勇ましいな」
宗矩「若気の至りというか、親父が心配して清正殿に『孫は短気なので、どうか三回までは許してやって』って頼み込んだというのに、一気にパーにしやがりましたからね」
利厳「仕方が無かったんです、性格の不一致というか、それで」
宗矩「そんなスピード離婚みたいな理由か?就職ナメてんのかお前はっ!?」
忠明「そう怒ってやるな。反省して修行の旅もしているではないか」
宗矩「あのねぇ、こいつにとって修行の旅なんて楽しい以外の何者でもないんですよ?」
利厳「そんなことありません。諸国を巡って、相手の心を思いやるということを学べました。だからこそ、今こうして尾張徳川家で指南役をつとめていられるのです」
忠明「主君に仕えるというのは気を遣うな」
宗矩「・・・遣ってたんだ。それはともかく、悪かったな兵介。お前だって成長しているんだよな」
利厳「なに、新陰流宗家として、叔父上には負けられませんからね」
宗矩「俺だって、柳生家当主として、お前に遅れを取るつもりは無いさ」
忠明「それにしても、ややこしいことだな。流派の宗家と家の当主がそれぞれ分割されているとは」
利厳「そこがお爺様のすごいところなんです」
宗矩「親父も家康公に負けない大狸ですからね」
忠明「ふむ、分割には理由があるのだな」
利厳「そうです。流派と家を別々に継がせたのは、柳生家を守るための方策なのです」
忠明「分割してどちらかが倒れても生き残れるようにか?」
宗矩「いえ、そういうわけではなく、重要なのは柳生家と新陰流は別にして考えているってことです」
忠明「ほう」
宗矩「流派は一つの家が継いでいくのではない。最も兵法を理解し、進化・維持させていくことが出来るものこそふさわしいわけで」
利厳「家を守るには、周囲の情勢を読み、己を律して公に奉公でき、政にも力を入れることが求められます」
忠明「なるほどな、それで兵法は利厳殿、家は柳生になのだな」
宗矩「まぁ、俺が兵介ほど兵法の才がなかったってのもあります」
利厳「えー、そんなこと無いと思うけどなぁ」
宗矩「いや、そうだと思うぞ。俺はお前のように、平時の兵法「すぐ立ったる身の位」なんて思いつきもしなかっただろう」
利厳「叔父上だって、流祖様の『活人剣』の心を発展させているではないですか」
宗矩「だから、それはあくまでも心の持ちようを言ったまでだろう。実技は俺は苦手なんだ」
忠明「実技が苦手で、将軍家の指南役など任されるわけは無いぞ」
利厳「そうですよ、叔父上は普段から色々と謙遜しすぎです」
忠明「舞は自重しないくせにな」
宗矩「趣味くらい好きにやらせてくださいよ・・・」
忠明「それにしても、端からは険悪だと言われているが、実際見るとお前たちは仲が悪くなさそうだな」
利厳「え、あ・・・まぁ、妹を主馬に勝手に嫁がせた時は、そりゃあもう大喧嘩しましたけど」
宗矩「だって、あの子が前の夫と別れて気の毒だったんだから、主馬なら兵法の筋も良いし人柄もいい、あのこが了承したんだからいいじゃないか」
利厳「だからって、兄を通さずに勝手に縁組とか・・・式が終わってから報告とか、あんまりですよ!俺だって花嫁姿が見たかったのに!」
忠明「それで、絶縁状を叩きつけたのか・・・シスコンだな」
宗矩「結構おおっぴらに叩きつけられてしまいましたから、それからずっと尾張柳生と江戸柳生と分かれた上に、延々と不和ということになりまして・・・まぁ、かえって完全に分離したほうが生き残るには都合が良かったんですけどね」
利厳「もう!叔父上はそうやって何でも理論的に解決しすぎるから、腹黒だとか誤解されるんですよ」
忠明「兵庫殿は実は叔父御が大好き、なのだな」
利厳「はい、年もそんなに離れてないし、柳生の里ではよく一緒に遊んでくれたんですよ」
宗矩「ふ・・・もう昔の話だ」
利厳「里のおなごに片っ端からコナかけたり、父上(厳勝)にイタズラしかけて死ぬほどしばかれたりする、面白くて楽しい、そんな叔父上が大好きです!」
宗矩「それはバラすな!!」

忠明「お前・・・本当に趣味は自重しなさすぎだ」
宗矩「人のこと言えないでしょうに」
忠明「なんだと、俺の剣は趣味ではないぞ」
宗矩「余計ダメでしょーが!」

つづく

柳生兵庫助と言ったほうが一般的ですかね。
新陰流の三代目を継いだ剣豪です。仕官先が、将軍家光と仲もよくない徳川義直のもとだったので、創作ではよく利厳VS宗矩の構図に尾張藩と将軍家の確執も織り交ぜて扱われたりしています。
戦国時代の剣術は、介者剣法といい、鎧のすき間を狙う為に重心を低くして小手や喉、股などを狙いました。
それが泰平の江戸時代に入ってから、いわゆる素肌剣法(道場剣法)へと変化していきます。
柳生利厳は「すぐ立ったる身の位」という、重心を高くした、現在のような背筋を伸ばした構えを作り、それまでの剣術の常識を大きく変えたと言われています。
ちょっとしたことですが、そこを発明できるのはやっぱりすごいと思います。


次回は誰を出そうか、考え中ですが、柳生の誰かです。

拍手どうもありがとうございます!
相変わらず、虚構と史実をごっちゃでお送りしております、まとまりきれなくて読みづらく、まだまだですが、見に来てくださり感謝です。
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剣豪さ(略)~柳生石舟斎のまき~ 

柳生宗厳(1527~1606)
大和柳生の庄の豪族・柳生家厳の息子。通称・新右衛門(新左衛門とか色々ある)。号は石舟斎。
1544年、柳生家は筒井順昭に降伏し幼い宗厳を人質に出した。その後は松永久秀と仕えたが、1566年の戦で拳を射られ重傷を負い、その後1571年には長男・厳勝が鉄砲で腰を撃たれ体が不自由になるなど不幸が続き、ほどなくして柳生の里に隠居するようになる。
幼い頃から兵法にすぐれ、一説には富田流・戸田一刀斎に学び、その後新当流・香取新十郎に学んでいたといい、その腕前は畿内随一とまで言われるほどになった。1563年、友人・胤栄(宝蔵院)の紹介で上泉信綱に出会い、立ち合いで完膚なきまでに負け、弟子入りする。1565年には印可を受け、その後師より託された「無刀取り」を完成させ一国一人の印可を授かる。


宗矩「なんで二度も出てくるんだ親父!!」
宗厳「ああ、父になんという冷たい言葉を・・・」
忠明「柳生、お父上にどうしてそんなに突っかかるのだ」
宗矩「忠明殿には関わりのないことです」
宗厳「ま、いつもの事だから。気にせず話をはじめるとするか」
宗矩「なっ」
忠明「そういえば、前回は息子を徳川に仕官させてあげた苦労話で、石舟斎殿のお話を伺っていなかったな」
宗矩「あげた?俺はハメられて・・・」
宗厳「うむうむ。つまらんかもしれんが、せっかくだから聞いてもらいたい」
忠明「いいか、おとなしく聞くのだぞ」
宗矩「っていうか、帰らせてください」
忠明「ダメだ」
宗厳「柳生の里は、京と奈良の間にある土地でな。我が柳生家は鎌倉の時代より、ちいさな土地を守る為に戦い続けていたのだ」
宗矩「・・・」
忠明「さまざまな勢力についたり離れたりしているな」
宗厳「そう。里を守る為に、強いものに付いて行くことは、仕方の無い処世術だったのさ。ワシも筒井に人質に出たりしていたし」
宗矩「・・・」
忠明「その筒井を裏切って、松永に付いたりもしているのか」
宗厳「んー、順昭殿が亡くなられて、後を継いだのは幼い順慶殿だしなぁ。その点、久秀殿は勢いもあるし、ノリも合ったし」
忠明「なんだ、松永殿と仲が良かったのか」
宗厳「そんなに悪くはないな。あの人はだいぶ捻じ曲がった感性の持ち主だが、一本筋の通った戦国の漢だぞ」
宗矩「はっ、似たもの同士で気が合ったわけだな」
忠明「お前と政宗殿との関係のようなものだろうが」
宗矩「ぐっ」
宗厳「松永殿とは実際は、ワシよりも松吟庵の叔父上が特に仲が良くてな。派手に自害するって久秀殿から手紙貰って、ついでに彼の宝物だった平蜘蛛の茶釜を形見分けされとるし」
忠明「仲良しなのだな」
宗厳「公方様を殺めたり、大仏を焼いてしまったりと、悪行ばかりが目に付くが、地元では名君と慕われた一面もあったわけでな。側にいた者としては、憎めぬなぁ」
忠明「なるほど、近くにいたからこそ、見える一面だな」
宗厳「それまでは良かったのさ・・・まぁ、息子が腰を撃たれて体が不自由になった時はショックだったが、それでもまだまだ、柳生を守ろうと思う気持ちに変わりは無かった」
忠明「それまでは、というと・・・」
宗厳「豊臣が天下を統一して、検地で隠田が見つかって、領地を全て没収されてしまったのには参ったな」
宗矩「家族がバラバラになったあの日ですか・・・」
忠明「ふむ、兄弟弟子の密告があったからと言うが」
宗厳「さて、その真相はワシにもわからんよ。一応、領地は没収されても秀長殿からは扶持はいただいたし」
宗矩「たった百石で、一族を養えるわけが無い!隠田だけを没収すれば良いのに、全て奪われたんですよ?」
宗厳「しかし、それをきっかけにお前は外に出て、世の中を見て歩けたではないか」
宗矩「それは・・・」
宗厳「ワシは、義昭公が信長殿に追われてから、とっくに世の中を傍観する側に立っていた。だが、お前たちはこれから世の中に漕ぎ出すのだ。里でゆるゆると過ごしては宝の持ち腐れよ。全て失っても、ワシには希望を託せるお前たちがいたからこそ、安心して柳生の川の底に沈んでいられたのだ」
宗矩「・・・父上」
忠明「不幸を、息子たちを育てる肥やしにしたというわけだな」
宗厳「まぁ、その場の勢いで思いついた苦しい言い訳だがな。わははは!」
宗矩「ぜ、前言撤回!」
忠明「普段は剣豪としての石舟斎殿ばかり見ているから、領主としての苦労の話は興味深いな」
宗厳「振り返ると、よくまぁ領主と兵法を同時にこなしていたと思う。これも柳生のみなの協力あってこそだよ」
宗矩「ふん」
宗厳「お前にも感謝しているぞ、又右衛門。よくぞ柳生の里を守ってくれたな」
宗矩「べ、別に・・・あんたのためじゃない。母上の・・・為だ」
忠明「春桃御前か。よい母上だったのだな」
宗厳「そりゃもう、好きすぎて子供11人こさえたしな!柳生の里のアイドルでワシの妻さ」
宗矩「も、もう帰れ!」
宗厳「なんだ、母親を愛することは恥ずかしいことではないぞ?」
宗矩「いいから!!」

忠明「よい御両親を持ったな」
宗矩「まぁ、それなりに」
忠明「素直ではないのだな」
宗矩「もう、身内は勘弁してください・・・そのうち母上まで出てきたら・・・」
忠明「何を言っている、しばらくは『柳生新陰流』特集だぞ」
宗矩「な・・・・・・・!!!」

つづく

二度目の石舟斎でした。新陰流の発展の中で、やはり「無刀取り」を完成させたこの方は外せませんね。
宗矩の母である春桃御前は、柳生の里の近くの奥原という所の奥原遠江守という人の娘です。
「御前」とは、高貴な人の血筋を引く人に付けられる尊称で、春桃御前も貴族の血を引く女性だったのでしょうか。宗厳との間には、柳生家の苦難の日々とは裏腹に沢山の子宝に恵まれ、二人の仲のよさが伺えます。1615年、大坂の役が終わった後に柳生の里で亡くなっています。

というわけで、しばらくは柳生続きです。よろしくお願いいたします。
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剣豪さ(略)~東郷重位のまき~ 

東郷重位(1561~1643)
薩摩出身の剣豪。名前の読みは「しげかた」口伝書では「ちゅうい」。旧姓は瀬戸口。通称は藤兵衛。
若い頃はタイ捨流を学び、島津家の家臣として戦場で戦っていたが、主家が豊臣秀吉に屈服。聚楽第の完成を祝うため島津義久に従い上京。目的は刀の鍔の金細工を学ぶ為だったらしいが、宿泊した天寧寺で出会った善吉という僧侶が『天真正自顕流』の継承者であると知り、弟子入りし三年かけて印可を与えられるまでに上達した。
薩摩に戻ると、重位の強さを伝え聞いた当主・家久によって島津家の指南役であったタイ捨流の兵法者と立ち合わねばならなくなってしまう。この立ち合いに勝った重位は島津家の指南役として迎えられることとなる。
四百石を与えられ、流派の名前も家久の命で南浦文之によって「示現流」となる。
礼儀正しく、争いを好まない人格者だったらしく、薩摩藩では重臣から相談を受けることも多かったという。


忠明「あるだろう、榧で出来た碁盤が」
宗矩「あれがいくらすると思ってるんですか?」
重位「最高級品をお持ちとは、さすが天下の柳生殿ですね」
忠明「いくら高かろうが、使わなければ宝の持ち腐れ」
宗矩「碁盤は刀でぶった斬るものじゃない!!」
重位「ははは、冗談ですよ、兵法者の冗談的な?ねぇ」
忠明「うん?そう、そうだぞ、冗談だ」
宗矩「タチの悪い冗談ですね」
重位「それはお互い様ということで」
忠明「つまらん、せっかく碁盤を斬って畳まで貫通する腕前を見ようと思ったのに」
宗矩「人の家の、碁盤で飽き足らず、畳までダメにしようとしてたんですか・・・!」
重位「ああ、あれは兵法の心構えを弟子に教えようとして、つい熱くなってしまったんです」
宗矩「そうだったんですか」
重位「弟子が野良犬を斬り、その時刀を振り下ろして地面につかぬようにうまく出来たとか、的外れなことを言うものですから」
忠明「小手先の器用さなど、真剣勝負では役に立たんからな」
重位「そうです。常に己の全力を持って臨む・・・示現流は『二の太刀いらず』ですから。その気構えを示す為に碁盤を斬ったのです」
宗矩「初太刀に全力を尽くす心構えを示すために、重位殿も全力で臨まれたのですね」
重位「ええ、弟子はわかってくれましたが・・・碁盤と畳はおろか根太木までダメになって妻に叱られました」
宗矩「兵法本位だと、家庭に影響が出ますよね・・・」
忠明「・・・そう、だな」
重位「おまけに我々は主君持ち。色々と苦労しますよね」
宗矩「本当に・・・いやぁ、重位殿とはいい酒が飲めそうですね」
重位「よかったら、琉球から技法が伝わったショウチュウでも一献どうです」
宗矩「おっ、いいですねぇ~」
忠明「ええい!何を務めの後の旗本みたいな話をしている!兵法の話はどうした!」
宗矩「あっ、そうですね。じゃあ簡単に」
忠明「僧侶から剣を習ったと言うが、そいつは何者だったのだ」
重位「善吉殿といい、元は武士でした。赤坂政雅というお名前で、天真正自顕流をまなび、皆伝を受けた腕前で」
宗矩「ほう、それはすごい」
忠明「そんなにすごければ、仕官の口も多かったろうに、なぜ僧侶になったのだろうか?」
重位「もともと、兵法を学んだのはお父上の仇討ちのためだったそうで。見事仇を報じたあとで国にいられなくなり、逃げた先で悟ることがあり僧となられたそうです」
宗矩「なるほど、そんないきさつで」
重位「出会いは突然でした。たまたま泊まった天寧寺で、善吉殿が掃除をしておられた。その身のこなしが只者ではなかったのです!衝撃でした!」
忠明「しかし、僧になっていたということは、兵法からも距離を置いていたのだろう?弟子入りは苦労したのではないか?」
重位「それはもう・・・いくら頼んでもダメだの一点張り。これはもういけないと、歌を一首残して去りました」
忠明「ほう、重位殿は歌を詠まれるのか」
宗矩「それで、その後どうなりました」
重位「拙者はこう歌を残しました。『濁江(にごりえ)に映らぬ月の光かな』と」
忠明「にごった江に月は映らぬ・・・つまり、清廉な水にこそ月は映じる」
宗矩「己の心に濁りなどない、その気持ちで兵法を習いたいと言う気持ちを綴られたのですね」
重位「左様で。すると、その心が善吉殿に届き、去りゆく私を呼びとめ、弟子にしてくださったのです」
忠明「そして、自顕流を全て伝授されたと言うわけだな」
宗矩「三年で皆伝とは、ものすごいですね」
重位「いやもう、充足した日々でした・・・主家には無理を言って京に滞在し、来る日も来る日も兵法三昧・・・」
忠明「皆伝までの日々は、己の技の上達が楽しい時期だな」
宗矩「その甲斐あって、島津家兵法指南役、示現流は御留流となった」
重位「いやぁ、ははは」
忠明「なんだ、微妙な顔をしているな」
重位「タイ捨流の師範と立ち合った時を思い出しまして・・・」
宗矩「重位殿はもともとタイ捨流を習われていましたよね、やはり気まずさが・・・?」
重位「いえいえ、そんなことは。その後です」
忠明「あと?」
重位「立ち合いをご覧になっていた家久様が、『俺はお前の腕前が信じられん!』と、真剣で斬りかかってこられましてね」
宗矩「うわ・・・噂にたがわぬDQNですね」
重位「まぁ、扇子で刀を叩き落して事なきを得たんですが、今度は急に気に入られて『千石やろう!指南役になれ!』とおっしゃる」
忠明「なんとも困った御仁だな」
重位「一介の兵法者にいきなりの千石。さすがに六百石は辞退申し上げました」
宗矩「・・・どこも、兵法数寄の主君には苦労するのですね」
重位「おまけに、なぜか政治向きの話まで私に持ってこられる。上意討ちなど、数こなしたものです」
忠明「むぅ、俺にはそういう話は来ないぞ」
宗矩「忠明殿は・・・」
重位「それは、小野殿のみに許された特権ですよ」
忠明「そうか、そう、なのか?」

重位「薩摩に来られた時は、失礼致しました」
忠明「気にするな」
宗矩「あれ、何かありましたっけ?」
重位「小野殿が薩摩へ来られて、てっきり幕府の内偵か何かと勘違いして・・・刺客を放ってしまったんですよ」
宗矩「うわー・・・」
忠明「二十人でかかってきたが、八人ばかり斬って、三人手傷を負わせた」
宗矩「うわぁ・・・」
重位「ははは、全く敵いませんでした。本当に申し訳ないことを」
忠明「まぁ、いい運動になったな」
宗矩「忠明殿、何しに薩摩まで行かれたんです」
忠明「うむ、薩摩はみかんが甘くてうまいと聞いてな」
宗矩「・・・(ついでに示現流の味も見に行ったんだろうな)」
重位「いやー、触らぬナニになんとやらですなぁ」

つづく

自顕流を「示現流」と改めた理由には諸説ありますが、「示現」というのは神仏の霊験が現出すること、仏が衆生を救う為に現出ことなどの意味がある仏教用語です。また示現流には「刀は抜くべがらざるもの」という教えがあり、無益な殺生を戒めています。
どの流派も、それぞれの表現で「殺生」を戒めているのは興味深いですね。

それと、示現流はドラマなどではよく「チェストー!!」って掛け声と共に攻撃していますが、実際はそのような掛け声は使いません。あと戦国時代ではまだ新しい流派です。

さて、次回からはいよいよ「新陰流」です。
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剣豪さ(略)~上泉義胤のまき~ 

上泉義胤(?~1647)
通称・孫次郎。祖父は上泉信綱。
父である秀胤は、上泉家には養子として入った身である。
父は息子・義胤には新陰流の技を継ぐ器にあらずとして新陰流を教えることは無かった。
そこで義胤は、居合の長野無楽斎に師事し、無楽流を学んだ。
上泉流軍学は父から教わっていたらしく、同門の岡本半助が井伊家にいたため無楽斎に引き合わせてもらったのはそのような繋がりからだと言われている。その後、柳生利厳に招かれ尾張徳川家に仕えた。
義胤はまた、名を何度か変えている。(岡村新之丞・民弥宗重)
隠居して是入と号した。

※相変わらずメタメタなうえ、今回はお食事中の方には申し訳ない表現もありますことをお詫びいたします。

義胤「す、すいません、お手洗いは・・・」
宗矩「こ、こちらです・・・」

忠明「兵庫助(利厳の通称)に招かれての試合でも、その調子だったらしいな」
義胤「ダメなんですよね、緊張すると厠へ行きたくなってしまい」
宗矩「先に行っておけばいいのに・・・」
義胤「おしっこじゃなくて、うんこのほうですからね」
宗矩「剣聖の孫がそんな言葉を発音してはいけません!」
忠明「お前・・・伊勢守様を何だと思っているのだ」
宗矩「親父が言ってました。『お師匠様はうんこなんかしない!』と」
忠明「・・・お前の家は、流祖様の事になると・・・なんというかすごいな」
義胤「うちの親父殿も、お爺様のことは大スキだったようですね」
忠明「それは、あれほどの人物だからな」
義胤「ええ。もともと、養子で引き取られたのて、お爺様に慈しまれて育ったそうですから」
宗矩「そうなのですか、それは何よりですね」
義胤「はい。本当は、お爺様と一緒にずっと兵法修行の旅をしたかったのかも知れません」
忠明「一緒に行けばよかったであろう」
義胤「そうは行きませんよ。上泉家の一員として、そして北条家に仕える者として、親父殿には果たすべきものがあったのです」
宗矩「上泉というと、伊勢守様の御活躍ばかりが取りざたされますが、御家族も苦労なされたのですね」
義胤「親父殿は、お爺様から伝授された新陰流もですが、他に居合いも学んでいたんです。偉大な父親に負けまいと、努力を重ねたのだと思います」
宗矩「新陰流の正統として、ウチの親父も頑張ったみたいですが、上泉家の皆様も相当のものだったでしょうね」
義胤「あ、お気になさらず!もともと優れた人が道統を引き継ぐのが当然ですから。だから、自分自身が新陰流を学べなかった事も、理解していますし」
忠明「なぜ、継ぐに値しないと言われてしまったのだろうな」
義胤「さあ・・・?新陰流に必要な何かがダメだったんじゃないでしょうか」
宗矩「いいのですか?そんな適当で納得して・・・」
義胤「いいじゃないですか。新陰流は柳生の皆さんが立派に育ててくれていますし。おかげで俺は居合という兵法に出会えたわけで」
忠明「尾張藩の居合師範になったのだから、腕前は評価されているな」
義胤「柳生利厳殿がとても熱心に私を推薦してくださって」
宗矩「それで、仕官の為の立ち合いを行ったわけですね」
義胤「はい。利厳殿の高弟の高田三之丞殿と」
忠明「三之丞はかなりの遣い手だな」
義胤「強かったですね~、三本勝負で最初は負けてしまいましたし」
宗矩「でも、その一本目で負けたのは・・・我慢していたんでしょう?」
義胤「あ、そうでしたね。あの時は大きいのが出ましたねぇ」
忠明「・・・大物、だな」
義胤「そうなんですよ、大物でした~。出ない時は変な汗が出ましたし」
忠明「そういう意味ではないッ」

宗矩「一刀斎先生は、しないんですか」
忠明「なんだ、そんな下の話をまだ引きずるのか」
宗矩「ど、どうなんですか」
忠明「師匠はうんこもするし人も斬るぞ」
宗矩「くっ・・・!(何かものすごく負けた気がする)」

つづく

高田三之丞との立会いで、途中トイレにいくために中座したときは、さすがの利厳もあっけに取られたそうです。そりゃそうでしょうな・・・。
『柳生新陰流縁起』という本には、義胤は三之丞に完敗したけれどその後修行を経て強くなって尾張藩に召抱えられたと言う形で書かれているそうです。

居合はここまで。次回はタイ捨流の人です。
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剣豪さ(略)~長野正次のまき~ 

長野正次(?~1649)
号は無楽斎。居合の無楽流の祖。
上州の長野氏の一族で、長野業正らと共に武田や北条と戦っていたと思われる。
長野氏本家が箕輪城で武田によって滅亡すると、正次が他家に仕えた記録は無く、再び仕えるのは上州に井伊直政がやってきた時である。
恐らくは、直政に仕えるまでの間(1565~1590)に剣術の修行をしたと考えられる。
弟子には上泉信綱の孫・義胤がいる。
無楽斎はいつも自家用牛に乗り、口綱を女の子に取らせていたと言う。が、生涯不犯だったといわれる。


宗矩「普通、自家用って馬ですけど・・・」
忠明「公家じゃあるまいし、牛車にでも乗っているのか?」
正次「いんや、牛に馬のように乗っているぞい」
宗矩「どうして牛なんですか?」
正次「牛は動きがまったりしてるじゃない」
忠明「それはそうだが・・・武士としてそれでいいのか?」
正次「馬で駆け回るばかりが武士ではないだろう」
忠明「むぅ、それはそうだな」
宗矩「それに・・・牛の口綱を女の子に取らせているって言うのも、どうなんですか」
正次「里で見かけた利発な美人をお持ち帰りする誰かさんよりは健康的だよ?」
宗矩「ぐっ」
忠明「なぜおなごなのだ」
正次「野郎に取らせて何が楽しいの」
忠次「・・・本当に不犯なのだろうな・・・」
正次「剣にかけて言える!おなごは眺めて楽しむのがいいんだよ」
忠明「柳生は見ているだけではおさまらぬのだ」
宗矩「そっ、それはともかく!無楽斎と号されていますが、何か理由はあるのでしょうか」
正次「楽したくないって気持ちのあらわれね」
宗矩「・・・」
忠明「・・・牛に乗っておなごに曳かせておいて」
正次「儂は若い頃、上州で叔父の業正殿と共に、武田や北条と戦う日々だった・・・」
忠明「おい、牛の話は」
宗矩「・・・強引に無視するつもりですね」
正次「しかし、叔父上の亡き後、長野本家は滅んでしまった。城からどうにか逃げたものの、先の展望はまるで立たなかった」
忠明「主家は滅び、帰る場所が無くなる、か・・・」
宗矩「戻る場所を失う辛さはわかります」
正次「そんな時に、業正殿が最も頼りにしていた武将・上泉秀綱殿が信玄の誘いを断り兵法修行の旅に出たと耳にしたのだ」
宗矩「おお、上泉先生!」
忠明「剣聖のその話は有名だな」
正次「儂はその姿に感動した。何かが終わると同時に、あの方には新たな道が見えていた。これまでを無為にすることなく、生きる道を見つけておられたのだ。それで、自分もひとつやってみようと思い立ったわけさ」
忠明「それが、兵法修行だったのだな」
正次「そう。折りよく林崎甚助殿が上州に来られてね。居合の動きに、すっかり魅せられてしまったので、弟子入りしたのだよ」
宗矩「ずっと甚助殿に師事されておられたのですか?」
正次「いや、しばらく教授していただいて、それから同じく林崎殿に学んだ田宮重政殿の元へも足を運び、教えを乞うた」
忠明「では、しばらくは廻国修行をしていたのだな」
正次「そうなるね。それから会得することがあって、上州に戻って『無楽流』を開いたんだよ」
宗矩「そこに、家康公が関東へ来られて・・・」
正次「うん。井伊直政様が箕輪に来られた。そこで長野の一族であった儂を探し出し、仕えてくれないかと誘われたのだよ」
宗矩「なぜ、井伊様に仕えようと思ったのです?」
正次「面白かったんだよ。直政殿がね」
忠明「おもしろい?」
正次「長野を滅ぼした武田も、織田に滅ぼされた・・・あの武田の赤備、それが今度は徳川殿の家臣に引き継がれて上州に戻ってくる・・・それがなにやらとても面白くてね。奇縁を感じてしまったのだよ」
宗矩「なるほど、不思議な縁ですね」
正次「おまけに、かつて尊敬していた兵法者の孫が、我が弟子となる日が来るとはね・・・本当に面白いよ」
忠明「上泉義胤殿か」
宗矩「世間って、広いようで狭いのかもしれませんね」
正次「切れてしまった縁が、思わぬところで繋がる・・・そこが人生の面白いところだねぇ」
宗矩「無楽斎殿は、井伊家家臣としても活躍なさっていますね」
忠明「小田原城攻めや、関ヶ原にも参加しているのだな」
正次「まぁね、北条に引導も渡せたし、ちょっと張り切っちゃったよね」
宗矩「五百石から三千五百石に加増を受けているのを見ますと、信頼ぶりが伺えますね」
正次「おかげで、隠居したら自家用牛とお付のおねえさんとのんびり過ごせたんだから、ありがたい話さ」

宗矩「牛ですか・・・」
忠明「それにおなご付きで」
宗矩「・・・ちょっと楽しそうですよね」
忠明「・・・やればいいだろう。別に止めんぞ」
宗矩「いやいやいや、さすがにそれは」
忠明「だろうな。そんなことをしたらまた十平衛の視線が白く」
宗矩「う、ううっ」

つづく

長野無楽斎さんでした。
井伊家の家老の長野さんと、兵法者の無楽斎は同一人物ではないと言う見解もあります。確かに、家老職まで巻かされた人が跡継ぎも立てずに独身でいるのも、それはそれでどうなんだと思わなくもないし、無楽流は実は井伊家では広まってなくて、なぜか福島のほうで伝わっていたり・・・。不思議。

次回はそんな無楽斎の弟子。天然剣聖の孫です。
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