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行き当たりばったり 道中日記

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信長の野望に登場する戦国武将・剣豪・その他徒然の、ゆるい風味の紹介動画を作成しています。

剣豪さん番外編~片山さんのお兄さん~ 

実のところ、この二人が兄弟かどうかは定かではないようなのですが、義兄弟でも何でもいいじゃないか。と思ってます。接点らしき符合点も逸話もあるわけでして。

竹内久盛(?~1595)
美作国(現在の岡山県)の垪和幸次の子として生まれる。小具足竹内流祖。
幼い頃から兵法に親しみ、垪和にある三ノ宮の愛宕神に参籠し「腰之廻」の技法を開眼する。
ただ、身長が五尺に満たなかったことが悩みの種であり、兵法上達の一因でもあった。
宇喜多直家と戦い敗れ、別所長治に仕えたとされる。(武蔵の父である新免無二に仕えたという説もあるが、誤伝と言われる)
晩年は故郷で過ごしたらしいが、没年には異説もあるそうだ。

久安「兄者のマゲは相変わらず悪あがきしとるなぁ、そう上に伸ばしても、頭の高さは変わらんよ?」
久盛「ほっとけぃ!」
久安「せっかくだもの、兄者のかっこいい話をワシが語っておこうと思うてな」
久盛「お、おう、悪いな」
久安「ならば話すとするぞ」

おっきい武芸者と久盛

むかし、備中に高畠大膳という体の大きな武芸者がおりました。
大膳は、兵法者として名の知れていた竹内久盛の元を訪れ、こう言いました。
「貴殿は腰之廻の技で、捕手の達人だと聞きました。拙者のような大柄で力持ちなものでも取り押さえることが出来ますかな?」
大膳を見上げながら、久盛は答えます。
「もちろんできますが・・・いやー、さすがにこのように大きな方を取り押さえるとなると」
「おや、出来ませんか?」
「いやなに、少しコツがありましてな」
「コツ?」
「ええ・・・ん?大膳殿、あなたの槍が後ろで倒れそうですぞ」
久盛のその言葉に、大膳が後ろを振り返ったその瞬間、久盛は大膳に躍りかかり、あっというまに組み伏せてしまいました。逃れようと力任せにもがこうとする大膳でしたが、首に小刀を突きつけられてしまいます。
「おーや、死んだも同然なんですから、動いてはいけませんぞ」
こう言って、久盛はニヤリと笑うのでした。
久盛の動きに感動した大膳は、その後彼に弟子入りするのでした。めでたしめでたし。


久安「大人気ないの~兄者は。首に刀まで突きつけて」
久盛「俺のいい所紹介ではなかったのかっ!?」
久安「どーせ、大柄って部分が気に障ったんだろう。素直に言ってしまえ」
久盛「あ、相手が鼻から侮っていたから脅してやったまでよ」
久安「ふふふん、ワシとの早駆けの時といい、兄者はやっぱり可愛らしい」
久盛「ええーい、やかましいわっ!こしゃくな弟めっ」
久安「おっ、小粒な兄者が怒った、怒ったら膨れてきたぞ、ははは」

宗矩「仲良しですねぇ・・・」
忠明「俺も、忠也にだけは可愛いと言われても構わんな」
宗矩「うちは・・・うちは・・・五郎右兄(宗章)はともかく、上のは厳しい鬼だし・・・」
忠明「ふぅ、これだから甘ったれの末っ子は」
宗矩「な、なにをっ!!」

つづく
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剣豪さ(略)~片山久安のまき~ 

片山久安(1575~1650)
林崎甚助と並び、居合の達人であり第一人者と呼ばれる剣豪。
林崎甚助を師とする説と、久安自身の叔父である松庵より「居合十八刀」の秘伝を相伝されたとも言われている。
文禄五年(1596)に京都の愛宕社に参籠し、夢で「貫」の一字を見て自流を「一貫流」と称した。
居合の道を開いて後、豊臣秀次に招かれて剣を教えたとも、後陽成天皇の前で「磯波(いそのなみ)」の技法を展覧し「伯耆守(ほうきのかみ)」を叙されたとも言うが、これらを裏付ける一次資料はいまだ発見されていない。
周防の大内氏に仕え、後に辞して安芸に渡る。そこでも浅野家で指導を行い。晩年は周防に戻り吉川広正(広家の長男)に招かれ客分として十人扶持十俵を貰い同地にて没した。


忠明「む、後ろのちいさいのは誰なのだ!」
宗矩「ああもう、言ってしまうんだから」
久安「ワシの兄者で、竹内久盛と申します。たぶん生霊なのでお気になさらず」
宗矩(生霊って、無茶苦茶気になるんだが・・・)
忠明「む、兄上か。これは失礼した。しかし、ちいさい兄上なのだな」
宗矩「忠明殿!!」
久安「はははっ、兄者は五尺に届かぬ背丈ゆえ、幼い頃より他者からその点を指摘されておりましたからなぁ」
宗矩「あなたもハッキリおっしゃいますね」
久安「歯に衣着せずに言い合うのが、我ら兄弟ゆえ」
忠明「兄上も、兵法者なのか?」
久安「さよう。小具足竹内流の祖でござる」
宗矩「小具足というと、短い脇差などを用いる柔術でしたね」
久安「ええ。兄者によれば『背丈が低いことが兵法の決定的な弱さではないことを教えてやる!』と奮起して三ノ宮に断食して籠もって編み出したそうですぞ」
忠明「必死に努力されたのだな」
宗矩「得物の長短も、兵法の強弱には結びつきませんからね」
久安「兄者とワシの二人で試行錯誤して、お互いの兵法を組み上げて言った時は、楽しいものでござった」
宗矩「仲良しなのですね」
忠明「兄弟が仲が良いのは良い事だ」
久安「まぁ・・・大人気ない張り合いなどもいたしたものでござったが」
宗矩「と言うと?」
久安「我が愛刀は、三尺三寸ありましてな」
忠明「それは、長いな」
久安「自分では何とも思っておらなんだところ、兄者が正月に会ったときに『お前、そのやたら長い刀は抜く時大変じゃないのか?もっと短くしろよ』と言われまして」
宗矩「ははぁ、その言葉にカチンと来たと」
久安「恥ずかしながらその通りで。年始の宴の後で、馬で早駆けしようということになりましてな。長い刀でも扱えるところを見せ付けてやりまして」
宗矩「具体的には、どうなさったので?」
久安「馬上で刀を抜き、散々振り回し、さらに体を一回ひねって鞘に納めると言うヤツで」
忠明「三尺三寸を馬上で・・・か、難しそうだな」
久安「ええ。負けじと自分の二尺三寸の刀で兄者も同じことをされたが、鞘に納めるところがうまくいかずに失敗しまして、後で長さについて文句を付けたことを謝ってこられた」
忠明「大人気ないな・・・だが、それも兵法者というものだ」
宗矩「負けず嫌いなところはお互い様ですね」
久安「その後、兄者はワシと同じ長さの刀を常備するようになりまして」
忠明「お互いの良さを認め合って生かすのは、なんだかいいな」
宗矩「ほほえましいですね」
久安「それはそうですが・・・しかし、川を渡った時に鯉が飛び跳ねてそれを刀で真っ二つにしてその日のご飯にしたのはどうかと思うのです」
忠明「そうか?兵法が日々の糧として生きていると思うが」
宗矩「・・・野性味あふれるお兄様ですね」
久安「ま、まぁ、居合と柔術、めざす兵法の術は違えども、互いに研磨することは非常に有益ですからな」
宗矩「他の得物への対し方を考えるのも大切ですからね」
忠明「そうして切磋琢磨したことで、久安殿の居合が『片山伯耆流』と呼ばれるに至ったわけだな」
久安「ワシ自身は一貫流と名付けたのですが、そうやって人々が呼び名を付けてくれるのは冥加に尽きます」

宗矩「三尺三寸(約124センチ)というのは、長いですよね」
忠明「源平の時代は、馬上でそういった大太刀で斬りあったりもしたそうだな」
宗矩「そういえば、鹿島神宮にはフツノミタマノツルギが奉納されてますし、あれは七尺近くありますよね」
忠明「そんな刀を扱えるとしたら・・・化け物だな」
宗矩「あ、さすがにそこは扱えるとはおっしゃらないんですね」
忠明「俺だって、己の力くらいはわきまえているのだぞ」
宗矩「もっとわきまえてください。その調子で」
忠明「お前の指図など受けんぞ」

つづく


片山久安さんでした。片山伯耆守という呼び名が一般的でしょう(剣豪好きにとっては)。
師匠が林崎甚助なのか、叔父の松庵なのかは定かではありませんが「甚助と松庵の二人から伝授された」という折衷案(?)で説明されることも多いみたいです。また、松庵は林崎甚助の叔父であると言う説もあるようで、どうも片山久安と林崎甚助の経歴が一部混ざっている部分もありそうですね。

ちなみに、片山伯耆流の理念であり技でもある「磯波」について調べたらこんな一文が見つかりました。
『潮が満つれば 波は磯を打ち 潮が干ると波は退いて 跡を留めない』
自然の道理を曲げず、その流れに身を任せること・・・これについては武芸諸流において様々な形で言われている大切なことのようです。

次回も居合から。あと二人ほど。その後はタイ捨流と示現流からお一人づつの予定です。

拍手をいつもありがとうございます。頂くたびに気合が注入されます!
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剣豪さ(略)~林崎重信のまき~ 

林崎重信(1542?~1621)
通称は甚助。
旧名は、浅野民治丸。父は数馬といい、楯岡の六代目城主・最上満英の家臣だったが、坂上主膳との間に確執が起こり、結果数馬は主膳に闇討ちされて命を落とした。
その後、幼い重信は仇討ちの為に様々な兵法の師をたずね修行を積んだ。
そして1556年、重信は母と共に林崎明神に百日参籠し、「刀の柄を長くせよ」との神託を得て奥義を開眼。苗字を「林崎」と改名した。ただし、彼の生まれた土地と奥義開眼までの逸話には「鎌倉に出て学んだ」とか「鹿島神宮で学んだ」や「武蔵国の氷川神社で開眼した」などの異説が多々あり、真相はよくわからない。ともかく、彼が「居合い」の原型を完成させたことだけは確かである。
後に父の仇である坂上主膳を討ち、その後も兵法修行に励むかたわら、各地で居合いの技を伝授していた。
最後は武蔵国の甥の家に滞在中、病没。


宗矩「あ~、わかってはいるんです。兵法を極めることと政治は両立しないことは」
忠明「仕官も、妻も、道場も持ってしまっているぞ・・・俺は」
甚助「ははは、そう深刻にならないで。私の場合ですからね」
宗矩「すみません・・・兵法一筋にできない環境に、多少葛藤がありまして」
忠明「まだまだ俺は未熟だ」
甚助「兵法者によらず、人間みな死ぬまで修行ですよ」
宗矩「重信殿は死ぬまで修行を地で行ってらっしゃいますよね」
甚助「仕官せず、妻を持たず、道場もないからこその気楽さですよ」
忠明「うらやましいことだ」
甚助「まぁ、これはこれで、大変ですがね」
宗矩「そうなんですか?」
甚助「後ろ盾もなく、寄るべき家も無く、根付いた土地もなく、己の身一つでいるわけですから」
忠明「それは相当な苦労をするだろうな」
甚助「実は・・・少々力を貸してくださる方もおられたのです」
宗矩「それはそうでしょう。重信殿ほどの兵法者を見逃すはずがありません」
忠明「協力者はどんな方だったのだ?」
甚助「ええ、加藤清正さまです」
宗矩「おお、それは大大名ではないですか」
忠明「あのヒゲの地震加藤さまだな」
甚助「武一辺倒と思われがちな見た目のお方ですが、思慮深く、先を見据えたお方ですね。居合いの有用性を理解していただき、家臣に指南してくれと頼まれ、しばし御指導いたしたことがあります」
宗矩「清正公は築城や民政にも腕を振るわれておりますからね」
忠明「そして、居合いの有用性か」
甚助「自分で言うのもなんですが、柄に八寸の利あり、と申しましてね」
宗矩「八寸の利、ですか」
忠明「居合いの刀の柄はそんなに長かったのか?」
甚助「いえ、二寸(約6センチ)ほどです」
宗矩「なるほど・・・その長さで数々の利点が生まれると」
甚助「理解がお早い。その通りで、二寸長さの利、間合いの利、こちらの打ち込みは届きやすく、相手の刃は遠くなる」
忠明「足して八寸の利か。そういうことなのだな」
甚助「はい。さらに身腰に三重の利、というのもありましてね」
宗矩「と、言いますと・・・」
甚助「上段では長さから敵を威圧し、相手からは我は遠く、我から相手は近い、と」
忠明「ううむ、様々な利が生まれるものだな」
甚助「ですが、そのコツをつかむまでが難しいのです。長さが変われば、細かい動きも全て違って参ります」
宗矩「そうでしょうね、単に長柄物が強いのなら、刀はとうに廃れていますし」
忠明「要はその二寸に含まれた有用性をどこまで体現できるかだな」
甚助「それに、居合いとは単に納刀から抜き放ち一撃で決するだけを意味するのではないのです。そこも御理解いただきたく」
宗矩「それは興味深いです」
忠明「お聞かせ願いたい」
甚助「居とは、心の置き所、居所のこと。合とは体のはたらきを指します。すなわち、心と体の動き、静と動を合わせて事に望む心法でもあります」
宗矩「その考えは、新陰流の懸待表裏の考えと似ていますね」
忠明「一刀すなわち万刀、万刀すなわち一刀にも通ずる考えがある」
甚助「結局のところ、我々は兵法馬鹿なのでしょうね、ふふふ」
宗矩「そうですね、政治の中に過ごしていても、片時も忘れることはありません」
忠明「俺の人生そのものだからな」
甚助「己の好むものを、創り上げたものを、多くの方に教えたい・・・その一心で、死ぬまであちこち行脚いたしまして、流浪でまいた種がその後実ってくれていたようですから、この上ない喜びです」

宗矩「居合いですよ」
忠明「居合いだな」
宗矩「・・・」
忠明「・・・」
宗矩(ちょっとやってみたいよなー)
忠明(それでも一刀流が勝つ)

つづく

居合いの始祖、林崎重信さんでした。林崎甚助というほうが名前が通っているでしょう。
調べてみると、修行の場所にも諸説あって面白いです。鹿島神宮はわかるんですが、氷川神社というのが不思議です。祭神はスサノオノミコトですが、あの神さまって武神というか、議論の多い複雑な立ち位置の神さまで、なんでそこで修行したのかな~?とか。諸説あるのも想像するのが楽しいですね。

次回も居合からどなたか御紹介です。

拍手どうもありがとうございます。
色々と励まされております!
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剣豪さ(略)~吉岡憲法のまき~ 

吉岡憲法(生没年不詳)
本名は「直綱」。通称は清十郎。なお、「憲法」とは代々の吉岡家の当主が継ぐ名前。
吉岡家は、足利将軍家の兵法指南役であり、直綱はその三代目である。
宮本武蔵とは一門をかけて争ったとされているが、双方の資料において「相手が負けてこっちが勝った」とあるうえ、他の資料でも武蔵が勝った場合と負けた場合の記述があり、真相は不明。
大坂の役では、大坂方につかないように頼まれていたが、大坂方についた。大坂方が敗北したあと、徳川の世になると兵法を生業とすることを恥じて、もともと自前で行っていた染物を生かして染物屋を始め、これが流行って以降、「憲法」といえば染物の代名詞となった。


宗矩「このやわらかい黒の色合いがいいんですよね、憲法染めは」
忠明「使い込むうちに少し茶色がかってきて、この色合いもいいものだな」
憲法「ありがとうございます」
宗矩「吉岡一門は、足利将軍家のご指南役でしたから、我々の先輩でいらっしゃいますね」
憲法「そんな頃もございましたねぇ」
忠明「もう、兵法家としての未練はないのか?」
憲法「ございませんよ。今は染物が手前にとっての兵法のようなものでして」
宗矩「そもそも、家伝として染めの技法は伝わっていたとか」
憲法「そうでございます。代々、一門の着物は自前で染めておりました」
忠明「それはたいしたものだな。染物の道もずいぶんと大変だと聞いたぞ」
憲法「そうでございますね、特に黒の色は出しにくいですからね」
宗矩「それなのに、兵法修行で好まれる着物の色といえば黒ですからね」
忠明「美しい黒染めの着物を着るのも、武士のこだわりだな」
憲法「我が家は昔から、独自に黒染めの技法を研究して来ましたので」
宗矩「始めにお聞きした時は驚きましたよ、あの吉岡殿が染物屋になられたと」
忠明「それだけでなく黒も美しいし、おまけに値段も相場よりも手ごろだからな」
憲法「みなさんに受け入れていただけてホッといたしましたね。一大決心でしたが、不安もありましたし」
宗矩「なぜ、大坂の役では大坂方へ?」
憲法「意地、でしょうか」
忠明「意地?」
憲法「宮本殿との争いのことは御存知ですね」
宗矩「ああ、勝ったとか負けたとか言われていますが」
憲法「それがいけません。かつては将軍家の指南役が、無名の兵法者にはっきりと勝てるような戦いを出来ず、無様なさまを見せてしまった・・・それだけで、うちは兵法を扱う家としてはやっていけませんでした」
忠明「一度失った信用を、取り戻せなかったのか」
宗矩「何もない所から這い上がるよりも、名声のある立場を維持することのほうが難しいですからね」
憲法「それに、我が京流はすでに古い・・・次々に出てくる新たな兵法に、押されていないとは言えませんでした」
宗矩「ま、まさか意地とは」
忠明「?」
憲法「そう、武蔵殿も幕府側、あなた方は言うまでも無く・・・」
宗矩「そうだったのですか・・・」
忠明「俺たちと勝負をするつもりだったのか」
憲法「そこまでの意地でもありませんがね。これで大坂方が負ければ、我々の生き方も終わらせようと思い極めたまでです」
宗矩「新陰流も一刀流も、新しい兵法でしたからね」
忠明「大坂の役では、多くの浪人が大阪城にいたということだが、吉岡殿もそこにいたのだな」
憲法「結果はご覧の通りです。しかし、染物の道がこのように我らに合っているとは、思いもよりませんでした。路頭に迷うことの無かったことは、幸せですね」
宗矩「めまぐるしく変化する中で、しっかりと家を絶やさずやっておられたのは、素晴らしいと思います」
忠明「いまや京の都の憲法殿と言えば、知らぬものなどおるまい」
憲法「ほんに、ありがとうございます。都にお立ち寄りの際は、憲法小紋をどうぞよろしゅう」

宗矩「ちなみに、憲法色はヤマモモの樹皮を使って染めるのだそうです」
忠明「柳生!勝手に人の家の秘伝を」
宗矩「大丈夫です。聞いたって我々に染められるもんじゃないでしょ」
忠明「そ、そうだな・・・」
宗矩「どうしたんです?」
忠明「ヤマモモで染めたのに、モモの香りがしないな」
宗矩「・・・」

つづく

というわけで、吉岡さんでした。
せっかく、武蔵と小次郎を取り上げさせていただいたので、この方も外せないだろうと思い調べてみたら、意外な事実がわかりました。
これだから歴史上の人物調べは楽しいですね。
wiki先生によれば、今でも染物をする方には「吉岡」の姓の方が多いとか。一部は、ご子孫の方なのでしょうか。
憲法色で検索すれば、どのような色かがわかります。黒茶色です。真っ黒もカッコイイですが、当時の「黒」というとこの憲法色が一番黒かったらしいですから、戦国時代の黒色のイメージをとらえやすいのではないかと。

次回からは、居合いの方々を取り上げたいと思います。

拍手ありがとうございます!
コメントを下さった方もありがとうございます。
また後日改めてお返事させていただきますので!
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剣豪さ(略)~佐々木小次郎のまき・ダブリ~ 

佐々木小次郎(?~1612)
秘剣・燕返しを習得したのは、錦帯橋のそばではなく、
その剣術の元は「虎切」という技でもなく、
イケメンの若者かもわからず、
武蔵の引き立て役でもない。ただ、彼の実情を伝える小次郎寄りの記事は伝わっていない。

宗矩「あの・・・」
巌流「結局、卵は孵らなかったんですよ。人肌じゃだめなんですね」
忠明「そうか・・・ツバメは夏の風物でかわいいな」
巌流「これぞツバメ孵し!な~んて冗談になるかと思ったんですがね、はっはっは」
忠明「うむ、残念だ」

宗矩「聞いてくださいよ、お二人とも」
忠明「なんだ、柳生はうるさいな」
宗矩「あの・・・ダブってます」
巌流「え、キャラが?」
宗矩「あの、小次郎殿の回はもうやったんですよ」
忠明「な、なにっ!?」
巌流「・・・あっ、中条流で私出ていたんでしたね」
忠明「あっ!」
宗矩「まったく、いきあたりばったりでやるからこんな間違いを犯すんですよ。どうするんですか」
巌流「まぁまぁ、せっかくですから何かお話しましょう」
宗矩「申し訳ないです」
忠明「しかし、あらかたネタは話したが」
巌流「せっかくですから、燕返しの創作秘話なんてどうでしょう」
宗矩「よろしいんですか?」
巌流「前回はお教えしませんでしたし」
忠明「心して聞こう」
巌流「では、はじまりまじまり」

~秘剣・燕返し~
むかしむかし、越後の国に小次郎という若者がおりました。
小次郎は剣術の才能をもっており、富田勢源という兵法者を師にしておりました。
富田勢源は中条流の達人で、特に小太刀の扱いは天下一とも言われます。
そんな勢源のもとで、小次郎は兵法を学びました。
師はとても強い人でした。小次郎もめきめきと強くなりましたが、まだまだ師には及びません。

ある晴れた日のことです。晴れた空を燕が飛んでいました。
小次郎はこころみに燕を打とうとしましたが、素早く飛ぶ燕を捉える事など出来ません。
師に届き、越えたいために小次郎はそれから毎日燕を追いますが、うまくいきません。
どうしたら、あの燕に剣が届くのか・・・?
そこで小次郎は思いつきます。今の小太刀ではなく、大太刀を使えば長さの利があると。
しかし、刀身の長い刀は小太刀とは重さも間合いも違います。
まずはこの大きな刀を自在に振り回す膂力が必要になります。小次郎は毎日その大太刀を使いこなす修行を始めました。滝の側など、修行でベタな場所にも行って、とにかく修行を積み、ついにその長さと重さを使いこなせるようになりました。そして、見事に燕を斬る事ができました。
小次郎は、こうして身につけた刀さばきを「燕返し」と名付け、師である鐘捲自斎に勝利し独立を果たすのでした。

巌流「めでたしめでたし」
忠明「なるほど、このような仔細が」
宗矩「ちょ、ちょっと。どうして最後に勝った方が勢源殿でなく自斎殿なんですか」
巌流「最初は勢源様のもとで修行して、後に自斎さまの弟子になったので・・・うっかりそこの経緯を抜いておりました」
忠明「うむ。それで辻褄が合う」
宗矩「っていうか、この話は本当なんですか?」
巌流「本人が言うのだから間違いないではないですか」
忠明「その通りだ」
宗矩「・・・」

つづく

ネタがダブってるのに、絵を描いた時点で気がつき、どうしようかと迷った挙句、勿体無いから使おうと言うことになりました。
・・・無計画でやってるからこういうバカなことになるんですよね。申し訳ないです。

いつも拍手をいただき、それに見合うだけのモンがやれているのかと恐縮します。
ありがとうございます。
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剣豪さ(略)~宮本武蔵のまき~ 

宮本武蔵(1584?~1645)
諱は玄信。幼名は弁之助。
生年・出身地などは、書物によって諸説あり、新免無二斎が父親と言うのも肯定と否定があるそうだ。
二刀流といえば、武蔵の創始したニ天一流である。
小説の主人公になり、一躍剣豪界のスターになった。
剣術だけでなく、書道や絵の分野にも才能を発揮した、職人のような人である。
虚構と事実、どちらをとってみても魅力的な人である。


宗矩「逸話を見る限り、もっと貪欲なのだと思っていましたよ私は」
武蔵「好きなことを、好きなようにやりたかっただけなんですけど・・・なんか有名になっちゃったんですね、めんどくさいなぁ」
忠明「確かに、兵法だけでなく絵やら書やら、色々とやっているな」
宗矩「それも、中途半端ではない、しっかりと筋の通ったものに仕上げていますからね」
武蔵「どれも外せない趣味であり、糧を得る大切な商売道具ですから、頑張りましたよ」
忠明「お前も、兵法家として身を立てたいと思っていたのだな」
武蔵「そうですよ。関ヶ原では、親父について黒田如水さまの下で活躍しました」
宗矩「あれ、宇喜多殿の下ではなかったのですね」
武蔵「うちの親子は流れ者で、ちょうど如水さまは金子をまいて優秀な輩を集めていて、それで参加したんですよ」
忠明「そのまま黒田家に仕えなかったのか」
武蔵「えー、だって如水さま結局留守を狙って領土をかっさらおうとしたわけで・・・いたらやばそうだったので」
宗矩「ま、まぁそうですけど・・・」
忠明「で、大坂の役ではどうしたのだ?大坂方についたという話もあるが」
武蔵「いやぁ、特に恩義のある方がいたわけでもなし。幕府方の水野さまの下で戦いましたよ」
宗矩「・・・わりとサバサバしているんですね」
武蔵「やっぱり、身を立てるにはしっかりとした目付けが大事でしょ。それはお二人だってそうでしょう?それで徳川さまをお選びになった」
忠明「その通りだな」
宗矩「確かに・・・家を守るにも、栄達を図るにも、土台の確かな主君を見つけることも重要ですからね」
武蔵「世の中には2種類の兵法者がいる。義理のために身をなげうつものと、兵法の為に手段を問わないものだ!・・・って親父が言ってました」
忠明「どちらも間違っていると断ずることはできない生き方だな」
宗矩「結局のところ、自分が満足する生き方が吉、ですよね。評価なんて他人が後でつけるものですし」
武蔵「幸運にも、俺の腕前は様々な大名のみなさんに注目してもらえて、良くしていただきました。・・・関わった兵法者の方々には、申し訳ないですけどね」
宗矩「ああ・・・君と立ち合った吉岡一門も、佐々木殿も・・・気の毒な印象を後世持たれてしまいましたしね」
忠明「敗者が悪く言われてしまうのは世の常だからな」
武蔵「吉岡殿も、佐々木殿も、相当の兵法家でしたし、結果は完勝とも言えなかったのですがね」
宗矩「それで、様々な書物で引き分けだ、完勝だ、なんだかんだと異論が出ているのですか」
武蔵「まぁ、弟子たちがちょっと脚色加えて吹聴したことも原因かもですが」
忠明「どこの道場も同じだな。師匠を尊敬するあまり、そうした誇張表現が出るのは」
宗矩「あなたの所も色々とやってくれていますからね」
忠明「うるさい!」
武蔵「ま、紆余曲折はありましたけど、兵法数寄の大名に目を留めてもらえて、兵法だけでなく絵や書に心をかたむける余裕が出来て、満足のいく暮らしができましたね」
忠明「幕府に仕えて公務にいそしんでいた我々よりも、自由でのびのびとした余生だったようだな」
宗矩「え・・・公務、いそしんでたんですか」
忠明「うるさい!!」
武蔵「自分のこれまでの人生とか、思い返せる時間を得られたのは、貴重でしたね」
宗矩「確か、兵法書を残されていますね」
武蔵「そんなに立派なものじゃないんですよ。自分なりの兵法観を、他人が見てもなんとなく感じてもらえるような、そんな内容なので、奥義とか技の話は極力してません」
宗矩「それと、独行道という訓戒も残していますよね」
武蔵「そうですね、死ぬ前にちょっとカッコつけた感じの」
忠明「身に楽しみをたくまず(楽しみを追い求めるな)・・・と、あるが」
武蔵「自分で感じたんですよ。兵法は好きで、楽しかったんですが、いざこれで身を立てようとするとこれが辛いのなんのって。趣味を仕事にしようとすると自分の想像以上の努力を要するので・・・同じことを考える人に注意しておこうかと思って」
忠明「そういう意味なのか」
宗矩「他の文言も、苦労がにじみ出た文章ですね」
忠明「なかなか到達できそうも無い理想だな」
武蔵「まぁ、死ぬ七日前の、妙にハイになっていたときに書きましたからね・・・自分でもどこまでやれていたかは、自信ないなぁー」
宗矩「これを全て実行できたら、聖人ですし」
武蔵「色々と、自分の人生にはグレーゾーンが多いですけど、その部分を使って俺の色々な解釈と、物語が編まれているのは、個人的に楽しいですね。沢山ネタを残しておいた甲斐があったってもんですよ」

忠明「・・・ネタか」
宗矩「忠明殿もあるじゃないですか。スイカの」
忠明「うるさい!!!」

つづく

宮本武蔵さんでした。ドラマに漫画に小説に、大活躍です。
吉川先生の作品で、有名になった人ですが、もともと巌流島の戦いは江戸時代から好まれた逸話で、様々なものがたりが伝わっています。
創作と実像にはギャップがありますが、それらが混じり合って存在する宮本武蔵という人は不思議な魅力をもっているんだなぁ、と感じます。
これからも、剣豪スターとして活躍が楽しみです。
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剣豪さ(略)~松岡則方のまき~ 

松岡則方(生没年不詳)
通称は兵庫助。
実家は鹿島神宮の大祝(神職)で、妻は塚原ト伝の兄・常賢の娘。
ト伝は晩年は則方の屋敷で暮らし、最後を迎えたのも彼の屋敷だった。
後年、徳川家康に指南役として仕え、「一の太刀」を含む新当流の全てを伝授した。
家康はこのことに感謝し、今後も松岡家を粗略にしないと言う誓紙を与え、現在も松岡家に伝わっている。


則方「殿(家康)は何事にも真面目な方でねぇ、文武両道を地で行くような、いそうでなかなか居ない方だよね」
宗矩「よく動かれますよね」
忠明「そしてよく食べるしな」
則方「そんな殿との出会いは、そう、関東に移封されて来た時だった」
宗矩「ああ、なるほど。武士の発祥の地、関東に来たなら、兵法の聖地である鹿島には必ず立ち寄りますからね」
忠明「そうだな。あそこは武士にとっては外せない場所だ」
則方「我が家は鹿島神宮の神職で、殿と目通りして兵法について語らい、新当流の技を御教授することになったのさ」
宗矩「昔から、殿は兵法に熱心でいらっしゃったのですね」
忠明「種類も豊富だし、どれも手を抜かれぬ。たいしたお方だ」
則方「そうそう、殿はね、やせていたんだよ。若い頃」
宗矩「ああー、そうらしいですね」
忠明「俺たちが初めてお会いした頃は、もう丸かったからな」
則方「私は長年、徐々に丸くなっていく様子を見ていたけれど・・・気が付いたらあんなに丸いんだもの」
宗矩「三方ヶ原のおりに描かせた、ブロマイドと私たちの出会った殿の姿を比べると、別人レベルですよ」
忠明「どうしたらこんなに変わるのだろうか」
則方「・・・ワシは昔から不思議なのだよ」
宗矩「なんでしょうか?」
則方「殿が粗食なのは二人も知っていよう」
忠明「麦飯にオカズは2個までだったか・・・やたらと薬の調合がお好きだし」
則方「そう、そんな健康志向の殿であるのに、なぜああも丸くなっていってしまわれるのかと」
宗矩「た、確かに、不思議ですね」
忠明「殿に直接お聞きしたらどうだろうか」
則方「うむ、聞いた」
宗矩「それで、なんとおおせで・・・?」
則方「人生の妙味が、自分を大きくするのだとか、なんとか」
忠明「答えになっていないな」
宗矩「・・・で、でも。太っているとはいえ、体さばきも通常の体系の人と変わりないですし」
則方「だから余計に謎なのだよなぁ」
宗矩「そ、そう言えば、殿から誓紙を戴いたとお聞きしましたが」
則方「いやー、びっくりしたよ、戴いた時は。新当流の全てを御教授したのは、殿にそれだけの実力があると見極めてなのだから、これは身に余るものだ」
忠明「全てを教えるにふさわしい才能を持つものなど、そうそう出会えるものではありませんな」
宗矩「人材育成は一番の課題ですよね、指南役ともなれば主家の代替わりのことも考えて、いろいろと・・・」
則方「だなぁ。粗略にしないという心遣いに応えるだけの指南が出来る安定した兵法の指導者を育てるとなると、重荷だよねぇ・・・この紙が」
宗矩「わー!松岡殿ぶっちゃけすぎですよ!!」
則方「君が自分を隠しすぎているんだよ。たまには本音を吐いておかないと、胃に穴が開いたりするぞ?」
宗矩「・・・・・・もう、開きました」
忠明「むぅ、俺はそんなことになったことがないな」
則方「君は・・・」
宗矩「ないでしょうねぇ・・・」

宗矩「例の殿の若かりし絵姿ですが」
忠明「ああ、しかみ像というアレか」
宗矩「殿は落ち込んだときに、若い頃の苦労を思い出してご自身を奮い立たせているそうなんですが」
忠明「が?」
宗矩「アレって・・・自分も昔はやせてたって、密かに悦に浸っているらしいんですよね」
忠明「・・・さすが殿、前向きでおられる」

つづく

松岡則方さんでした。奥山休賀斎に続いて、家康個人に剣術を指南したもう一人の剣豪です。
しかし、ト伝先生が奥義を教えた人は・・・いっぱいいますね。唯一授人(教えるのは一人だけ)の技じゃなかったのかなぁ・・・というのは剣豪好きは一回はツッコムポイントだと思います(笑)。
家康に全てを伝授したということを本気にするなら、家康は「一の太刀」が使えたことになりますよね。

次回からは剣豪界で最も有名なライバルな二人を一人づつと、居合い剣豪に、ラストは新陰流(柳生は別枠)の予定で参ろうかと思っています。
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剣豪さ(略)~師岡常成のまき~ 

師岡常成(1533~1593)
姓は「諸岡」とも。通称は平五郎。一羽は号。(号も、一巴、一端など諸説あり)
美濃土岐氏の一族で、父が江戸崎へ移り江戸崎土岐氏へ仕えることとなる。
塚原ト伝の弟子の一人で、「一の太刀」の奥義を伝授されたと伝えられる一人。
江戸崎土岐氏は北条家に仕えていた為、秀吉の小田原攻めで北条家が滅ぶと、佐竹家の葦名義広から再仕官をすすめられるも、辞退し兵法道場を開いた。
晩年に業病を発し、最後は弟子に看取られて息を引き取った。この最後の弟子たちが色々とドラマを生んでいるが、長いので省略。

※相変わらず事実と捏造が7:3位の割合ですが、御了承ください。

常成「特徴って・・・」
忠明「包帯ぐるぐるのイメージがあるな、小説とかで」
常成「あれは病で仕方なくだな」
宗矩「刑部殿もそうですが、全身包帯と頭巾ってインパクトありますからね」
常成「くっ、師匠の言うとおりになったのが口惜しい」
忠明「ト伝先生がなにをおっしゃたのだ?」
常成「お前は顔の印象が薄いから、顔に包帯でも巻いていればいいじゃろ・・・とな」
宗矩「もしかして、ト伝先生が存命の頃に包帯を巻いていたのは・・・」
常成「いや、少しは症状が出てはいた。と言っても、自分でも気にしない程度だったのだが、あの人が無理やり・・・」
宗矩「横暴な人には苦労しますよね・・・お察しします」
常成「ありがとう。今日は好きな姿で来ていいとの話だったので、こうして地顔で来られてよかったよ」
忠明「今日は遠いところご苦労様でした」
宗矩「・・・いや、まだ終わりませんからね!?」
忠明「む、そうだな」
宗矩「えー・・・それで」
忠明「業病とはどんな病なのだ?」
宗矩「忠明殿!!いきなりそんなアウトゾーンの質問をっ」
常成「前世で悪事を働いたりして、その業が身に現れる病なのだそうだ」
忠明「業がか・・・それは恐ろしいな」
宗矩「原因も不明なのですね」
常成「ああ。進行の度合いも人によって違う。10年もたない者もいればゆるゆると進む者もいる」
忠明「面相が変わるという事で、忌むものも多いな」
宗矩「私たちの時代は、病への認識もまだまだ一般には進んでいませんからね」
常成「幸いにして、私は兵法者としてそれなりに知られていたからか、病が顕著になっても弟子が残り、世話をしていてくれた。あれは嬉しいものだ」
宗矩「感心なお弟子さんですね」
忠明「それで済んでいたら美談で済んだのだろうがな」
宗矩「またそういうストレートな事を」
常成「ははは。美しく収まらぬのが面白いな。あいつらはあいつらなりに、それぞれ野心があることは知っていたから、俺が死んだら何かあるだろうと思ったが、後世の語り草となるとは愉快だな」
忠明「兎と熊の勝負は江戸でも随分盛り上がったらしいな。俺も見たかった」
宗矩「勝手に人の名前を略さない!」
忠明「だって、変な名前だろうが。根岸兎角と岩間小熊だぞ」
宗矩「まぁ、確かに・・・土子泥之助も、名付けた人の真意を測りかねる変わった名前ですよね」
常成「俺が付けたんだが」
宗矩「はっ!いやっ、す、すみません・・・!」
忠明「なんで全員変な名前なのだ」
常成「簡単に言えば、奇抜な名前で覚えてもらう為だな。名を売ることは兵法者にとって必要だからな」
宗矩「確かに、お三方とも忘れがたい名前の響きですね・・・奇抜で」
忠明「意外と単純な理由なのだな」
常成「おいおい、誰でもお前たちのように名のある家に生まれた武士ではないのだ。身分の低い武士は、名の売り方を選んではおれぬ」
宗矩「た、確かに、兵法者は食うか食わずの生活が多いですよね」
忠明「むぅ・・・まだまだ修行が足りんな」
常成「あいつらもそんな身分の低い、でも名前を歴史に刻みたい野心を持った者たちだった。だから、見た目で名前を付けてみたのだ」
宗矩「なるほど、根岸殿は見た目が兎のようで・・・岩間殿は小熊っぽかったと」
忠明「熊はいいとして、兎は、兵法者なのにそんな弱そうなのでいいのか?」
常成「ギャップを狙ってみた」
宗矩「は、はぁ・・・それで・・・残るお一人」
忠明「土子泥之助・・・泥とは一体どういう意味で付けたのだ」
常成「ん?あいつに初めて出会ったとき、田んぼで泥まみれになっていたからだ」
宗矩「・・・」
忠明「さすが、ト伝先生の高弟だな」
常成「感心しているところすまないが、最後にこれだけは言わせてくれ」
宗矩「なんでしょう」
常成「俺が病で包帯だらけだったのは晩年だ!人生の殆どは包帯なしだから覚えて置くように!」
忠明「・・・とはいえ、地顔で出てくるなんてどの小説でもないし、ここでももうないだろうな」
常成「くっ・・・インパクトが・・・くそっ!」

宗矩「忠明殿、なんですか今日の突っ込みすぎた発言は」
忠明「相手はト伝先生の高弟だからな」
宗矩「それと今日の無遠慮な発言がどう結びつくんですか」
忠明「俺は強い相手には手を抜かぬのだ」
宗矩「・・・はぁ、もう・・・」

つづく

師岡一羽さんでした。ト伝の弟子では結構好きな方です。茨城にはお墓もあるそうなので、ぜひ訪れてみたいものです。一羽の流派は「一羽流」と呼ばれその流れの先には新撰組の近藤さんで有名な「天然理心流」があります。

次回は、家康の指南役でもあった松岡兵庫助さんです。

最近更新が飛び飛びで申し訳ありません。急に仕事が忙しくなり、時間が取りづらくなっております。気長にマターリやっていこうとおもいますので、のんびりお付き合いください。
いつも見てくださる方々、ありがとうございます。
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剣豪さ(略)~斎藤勝秀のまき~ 

斎藤勝秀(1550~1587)
伝鬼坊(伝鬼房・伝輝房とも)。幼名は金平。
常陸真壁の生まれ。父は北条氏康に仕えていたらしい。
幼い頃から兵法を好み、塚原ト伝の門下となり武芸を磨く。鶴岡八幡宮に百日参詣し、不思議な修験者に出会い兵法の極意を教わった。この時、修験者が去り際に天を指差した事から自分の流派を「天流」と呼ぶようになった。
上京中、兵法達者として名が聞こえたので天皇に兵法を天覧し、判官の位をいただいた。その後、帰郷して天流は人気の兵法となるが、霞流の者たちと衝突が起こり、霞流の達人である桜井霞之助を立ち合いで倒す。その報復に、霞之助の弟子たちによって弓を射掛けられて殺された。


勝秀「おいおい、俺の勝負服だぞ、なんでダメなんだい?カラスの羽で作った羽織」
忠明「そうだぞ、ふわふわだぞ柳生」
宗矩「兵法の具流にはいいのまもしれませんが、出仕するのにその格好はダメでしょう」
勝秀「修験者のおっさんが、これからのモードの最先端だって言ってたのになぁ・・・」
忠明「廻国兵法者のスタイルの一つではあるな」
宗矩「・・・その修験者殿から、兵法の奥義を教授されたのではないのですか?」
勝秀「だから、兵法の実技から、他人と差をつける着こなしまで習ったんだよ」
宗矩「・・・そこまで教えてくれるもんなんですね」
忠明「親切だな」
宗矩「で、その流行の格好で京の都まで?」
勝秀「そうだよ。京娘にもキャーキャー言われたんだぜ!」
宗矩(きっと悲鳴と言う意味だろうな・・・)
忠明「ふん、おなごに鼻の下を伸ばすのは感心せんな」
勝秀「またまた、あんたもキャーキャー言われるほうだろう?」
忠明「う、うるさい!!」
宗矩(かわいいと言う意味でよく・・・)
勝秀「で、京都で名前が売れてきたときに、帝の御前で演武をする機会を頂いたんだよ」
忠明「・・・そこがわからん」
勝秀「うん?何か?」
忠明「帝だぞ、そう簡単に天覧など出来るものなのか?」
宗矩「忠明殿、たまにはまともな指摘をしますね」
忠明「当然だ」
勝秀「そりゃ、俺の腕前が目に止まったからだろ」
宗矩「こう言っては失礼ですが、あなたと同じほどに兵法を扱える人間は同じ時代に結構いたと思うのですが・・・なぜ勝秀殿だったのでしょう?」
勝秀「ふむ、もっともな疑問だよな。理由は、たぶん俺にコネがあったから。だな」
忠明「コネだと・・・」
勝秀「あ、悪い事だなんて思うなよ?誰かのツテでどこかの大名に仕官するとか、そういうものを持つことは兵法者だって必要なんだぜ?あんたらにも、無いとは言わせねぇ」
忠明「う、それは・・・」
宗矩「忠明殿が徳川家に仕官できたのも、一刀斎先生のコネですもんね」
忠明「お、お前だって親父のコネのくせに!」
宗矩「俺は親父に一言も頼んでねーよ!!あいつが勝手にっ」
勝秀「と、言うように、大事な要素だろ。良く言えば人脈ってやつかな」
忠明「だが、コネだとしても、そう簡単に天覧できるものなのか?」
勝秀「他にも色々と・・・な。ほら、朝廷って当時は資金もないし・・・」
宗矩「随分色々と根回ししたんですね」
勝秀「実力も必要だけど、そういう努力もないとな。表面上は奇麗事言ってても、水面下ではジタバタ水を掻いてるもんだろ」
忠明「そうだな、兵法修行だって血泥まみれになるし・・・」
宗矩「自分の地位を築いたのが、お天道様に正面から立てるようなものだけではないのは確かですね」
勝秀「そんなもんだろ。そして、そういう行動には何かの代償がつくことも。名声を得る代わりに、失うことものもあることを覚悟してたぜ」
忠明「それで、結果的に命を失ったということになるな」
勝秀「何がどう動くかなんてわからんよ。少なくとも帝に俺の兵法を見ていただき、故郷に錦を飾れたことで満足してる。流派を後まで伝えてくれたことは、素直にありがたいと思う」

宗矩「上泉伊勢守さまも、友人に山科言継卿がいらっしゃったから、その筋から天覧にこぎつけたんでしょうね」
忠明「どんな方にも、様々な苦心があるものだな」
宗矩「他者とのつながりを持つと言うことも、世の中に暮らす以上は必要ですよね」
忠明「そうだな」
宗矩「そう思うんでしたら、もう少し幕府に迷惑をかけないようにですね」
忠明「俺としては最大限努力しているのだ!」
宗矩「そ、そうなんですか」

つづく

斎藤伝鬼坊さんでした。
天流は、現在は主に薙刀を得意とする流派として、京都を中心に現存しています。「天道流」という名前になっています。また、この流派の日夏繁高という人が、武芸の達人について記した『本朝武芸小伝』を書いています。
伝鬼坊が天皇に技を見せたことに関する「コネ云々」の話は、私の個人的な想像です。毎度、すいません。

じばらくはまだト伝先生の弟子が続きます。
剣豪は人数が多いので、自分でも終わりが見えません。気長にお付き合いくださいませ。
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剣豪さ(略)~真壁氏幹のまき~ 

真壁氏幹(1550~1622)
常陸の戦国武将。安芸守。暗夜軒。
北条・佐竹という大きな勢力の間で、氏幹の父・久幹は考えた末に佐竹配下になる。しかし、息子二人に「佐竹義昭」の「義幹」と「北条氏綱」の「氏幹」と付けたあたり、真壁家の状況は揺らいでいたものだったようだ。
塚原ト伝の弟子で、二メートルの樫の棒を振り回して戦い「鬼真壁」と恐れられた。

氏幹「ごめんごめん、屋敷の外に置いてきた、樫の棒は不味かったか」
宗矩「申し訳ありません。一応、気兼ねなくお話を伺うと言う意味で、武器の携行は御遠慮願っておりまして」
忠明「俺たちも刀を持っていないしな」
氏幹「いや、賢明な判断だよ。なにせ、俺たちって血の気が多いもんな」
宗矩「そうですね、兵法者ともなると仕官目当ての潰しあいもザラですし」
忠明「氏幹殿も、武将と兵法者の間で苦心されたようだな」
氏幹「そうそう、ただでさえこっちは家を潰さないようにどう立ち回ろうかって考えている時に、兵法者としての問題まで発生して・・・」
宗矩「斉藤勝秀(伝鬼坊)殿との確執、でしたよね」
氏幹「あれは、お互いにとって嫌な結末になっちまったな・・・」
忠明「互いに一流を開いていたのだよな」
氏幹「ああ。俺は親父の開いた『霞流』、勝秀は『天流』だ」
宗矩「お二人は同じ塚原ト伝先生の弟子ですよね、仲良くなかったのですか?」
氏幹「ト伝師匠のもとへ修行に通ってた時は、仲は悪く無かったよ?同い年だし、結構気も合ったしさ」
忠明「ならば、なぜ衝突することになったのだ」
氏幹「なんでだろ?あいつが帝に技を天覧して、戻ってきたのは、たいしたものだと思ったんだ」
宗矩「お互いは反目していなかった・・・」
氏幹「そう。けれど俺やあいつの周囲はそうじゃない。互いを意識するようになって、それは天流が俺の領内で広まるにつれて、いさかいに発展して行った」
忠明「他流同士が争うことは珍しくないが」
宗矩「問題は、道場主同士の問題ではないってことですよね」
氏幹「そう、悪いことに俺の家臣の息子が、先走って勝秀に立ち合いを挑んで、それで負けて命を落としてしまった。これで、俺も嫌でもかかわらなきゃならなくなったわけ」
宗矩「最悪の事態ですね・・・」
氏幹「さらに、死んだ弟子は桜井霞之助って言うんだけど、美形で腕も立って他の弟子からも人気があった。で、死んだ桜井の親父は仇討ちだと言い募るし、残った弟子たちもおさまりがつかなくなってしまった」
忠明「集団の感情が爆発しだすと、止めるのは難しいな」
氏幹「決着は早くつけなければいけなかった。周囲の情勢がめまぐるしく変化する中で、領内の問題でスキを見せるわけには行かないからな。だから、おれは兵法者としてではなく武将としての決断をした」
宗矩「それが、あの闇討ちですか・・・」
氏幹「勝秀は強かったからな。うちの桜井を倒した腕前は並じゃない。犠牲を出さない為に、矢を射掛けたのさ。それについて、卑怯と言われても弁解はしない」
忠明「それは討たれるほうの注意が足りない、とも言われてしまうご時世だしな」
氏幹「救いと言えるかわからないが、勝秀の息子は俺を恨んだだろうが、何も事を起こさずに流派を継承してくれたことだな」
宗矩「血で血を洗う事態にならなかったのは幸いですね」
氏幹「だな。ま、ウチの霞流は名前のとおりに霞のように消えてしまったし・・・流派を後に継いでいくという観点からは向こうの勝ち、じゃないかな」
忠明「ようするに引き分けだな」
氏幹「そうなるな。俺は真壁の家を守れたし、向こうは作り上げた兵法を守れた。互いの立場の意地は通せたと思うぜ」

宗矩「互いの意地・・・か」
忠明「みな、それぞれの立場からの野望があるものだからな」
宗矩「それでぶつかり合って・・・我々はよく同じ立場に立っていたものですね」
忠明「俺が我慢強かったからな」
宗矩「ええー、よくそんなことが言えますね。私の忍耐と協調性のたまものでしょう」

つづく

鬼真壁こと、氏幹さんでした。
剣豪の紹介本によっては、斉藤伝鬼坊を闇討ちした部分のみで「極悪非道の男」という気の毒なレッテルを貼られてしまっています。実際には、戦国時代を厳しく生き抜き、晩年は寺に入って静かに暮らしたと言われています。
貴重な彼が主役の小説『鬼の義』はオススメです。剣豪としてではなく、武将としての真壁さんを描いています。

さて、次回は天流の人です。
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