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行き当たりばったり 道中日記

  // 

信長の野望に登場する戦国武将・剣豪・その他徒然の、ゆるい風味の紹介動画を作成しています。

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小山で乱世を生き抜いた・結城晴朝 

結城晴朝(1534~1614)
下野の武将・小山高朝の三男として生まれる。幼名・七郎。小山晴朝。
弘治二年(1556)、前の年に小田氏治が結城領内にちょっかいをかけてきた仕返しの出陣に参加している。(海老島の戦)
父の兄である結城政勝には嫡子・明朝がいたが急死し、弟・高朝の三男である晴朝は養子に迎えられた。
永禄二年(1559)、養父が没すると結城家の家督を継ぐ。
養父の死の翌年、養父健在のころから結城家から領地奪還を狙っていた小田家が、佐竹や宇都宮と組んで大軍で攻めてくる。が、晴朝は結城城に籠城し、落城しかけるもののどうにか和議に持ち込んだ。
この年、長尾景虎が関東管領・上杉憲政を伴って関東にやってくると、晴朝はその遠征の輪には加わらず、古河公方・足利義氏と共に後北条氏と手を結ぶ。
しかし、長尾景虎が関東管領に就任すると掌を反して反北条方に転じる。そして、父の小山高朝が死去すると兄の小山秀綱が後北条氏に降伏し、さらに結城家の家督を望んで晴朝と対立する。
晴朝には嫡子がなく、宇都宮広綱から養子・朝勝を貰い受け、宇都宮氏と、さらに朝勝の母の兄である佐竹義重とも結び、兄・秀綱に対抗した。
その後、上杉謙信の死後、結城氏は後北条氏の脅威にさらされるが、宇都宮氏・佐竹氏・那須氏などと連合し、天正五年(1577)には北条氏政、氏照親子の軍勢を撃退することに成功している。
天正十二年(1584)、佐竹義重が北条氏直と戦ったときは、佐竹方として参加した。
天正十八年(1590)に豊臣秀吉が小田原城を攻めた時には秀吉に従い、小山城を攻略するなど功を挙げ本領を安堵されている。
この後、秀吉に臣従した晴朝は秀吉との結びつきを強くするために、水谷勝俊を仲介に養子縁組を秀吉に申し出て、秀吉が家康から養子に貰い受けていた秀康を結城家に迎え入れる。この時、宇都宮氏からの養子・朝勝は廃嫡され、秀康が嫡子となり、晴朝は隠居し、家督は秀康が継いだ。
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでは、秀康は上杉・佐竹への押さえとして宇都宮に留まり、戦後越前六十七万石に転封となる。慶長九年(1604)に秀康が松平姓に服すると、晴朝は養嗣子として養育していた秀康の五男・直基を結城家の跡取りとして結城家を継がせた。
慶長十九年(1614)に中久喜城で死去。享年81歳。

※毎度の蛇足コーナーです。

秀綱「というわけで、関東の小悪党こと晴朝殿においでいただきました」
業正「うむ」
晴朝「いきなりひどい紹介だなぁ」
秀綱「だって、いろいろ黒い部分があるようですし」
晴朝「そんなことありませんよ、俺は結城家を守るために行動していただけで」
業正「明朝殿は、疱瘡にかかりたった一日で病死だそうだな?それでおぬしが結城家の跡取りに選ばれた…」
晴朝「ははっ、俺が結城家の家督欲しさに、叔父上のご嫡男をどうにかした、とでも?」
業正「ふっふ、なぁに、わしの単なる空想さ」
晴朝「嫌な空想ですなぁ…まったく」
秀綱「朝勝殿を廃嫡して、秀康殿を跡継ぎにしたりもしていますね、これもマイナスイメージでしょうな」
晴朝「またまた、家を継がせるのは、家を存続してくれる力のある者に決まってるじゃないですか」
業正「つまり、朝勝殿では足りなかったというわけか」
秀綱「理由は、わかる気がしますね」
晴朝「そうです。家柄・血筋・能力、どれを取っても秀康殿は朝勝殿より上だったわけです、朝勝殿には申し訳ないが…」
業正「選べるものなら、より生き残れる血を残すというのは乱世では当然、だな」
晴朝「その通り、己が陰でどう言われようと、結城家が存続されればそれでよかったんですよ…それに」
秀綱「ちょい悪のほうがかっこいいですからね~」
晴朝「剣聖殿!人の台詞の先回りまでなさらないでいただきたい、です」
秀綱「おや、当たってましたか」

秀綱「それで、晴朝殿も小田さんの被害者なんですね」
晴朝「困りますよ~あの御仁、こっちの弱い時を狙って嫌がらせみたいな攻め方をしてこられて」
業正「確かに、うっとうしいな」
晴朝「まぁ、戦が不得手で助かりますが…あれで戦上手だったら脅威だったかも、しれないですね」
秀綱「関東の強豪・小田家!もあり得たと」
業正「ある意味、印象に残る強豪ではあったようだがな」
晴朝「まったくです、あんだけ叩いて、死なないのが近隣の諸侯も関東七不思議だって」
秀綱「関東七不思議…」
晴朝「あ、長野殿も入ってますよ、怪異!!美人の娘が12人!?妖怪ジジイの絶倫パワー!って」
業正「…今考えただろう」
晴朝「わかります?さすがは上州の色男」
業正「ふっ、まぁな」
秀綱(そこは否定しないんですね)

業正「さて、ここからが本題だ」
秀綱「そうですね」
晴朝「な、なんですか、改まって」
業正「とぼけるな、いいから話せ」
晴朝「な、何を?」
業正「お主の家には、源頼朝公から先祖が受け取った莫大な金子の話があるはずだろうが!」
晴朝「だーっ!あんたまでそれを言いますか!?どいつもこいつも、人の顔見りゃその話題ばっかり!!」
秀綱「ふふ、夢のあるお話ですねぇ」
業正「お主、秀康殿を養子に迎える際にどこぞに隠したそうではないか」
晴朝「だーかーらー、そんなモン知りませんからね?」
秀綱「あ…もしかして、小田さんも財宝目当てだったんですかね」
晴朝「あの人単純ですから、どこかでその与太話聞いて…」
業正「ありえなくもない、か?」
晴朝「いや、さすがに小田家は名家だし…そんなせこい真似は」
秀綱「まさか、ねぇ」

おわり

結城晴朝さんでした。
関東の諸将はみなそうですが、北条か上杉か?のはざまで揺れていますね。この晴朝さんもそうですが。
ちなみに、結城埋蔵金伝説ですが、それによると…秀康が晴朝の養子になったのは、結城家の黄金を我が物にせんとたくらむ徳川家康の陰謀で、無理やり送り込まれたもので、家康に財宝を渡してたまるか!と思った晴朝さんは、家臣に命じて財宝をどこかに隠してしまいました。しかし家康はあきらめず、関ヶ原の戦いでの功を理由に越前へ結城氏を移封、邪魔者を追い払って埋蔵金を掘り出そうと画策した…だそうで。
結局、家康が掘っても吉宗が掘っても、埋蔵金一銭も見つからなかったけどな!
はてさて、真相はいかに?
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坂東の不死鳥・小田氏治 

小田氏治(1534~1602)
常陸の戦国武将。小田家の十五代目当主。
小田氏の源流は藤原北家八田流とされ、時の関白の孫が宇都宮氏を作り、宗家の弟が小田家の祖である。源頼朝の家臣の中にその名があり、頼朝から常陸守護に任ぜられている。鎌倉幕府より、『関東八屋形』にも名を連ねた名家であるが、その地位は安定せずに周囲の佐竹氏などに脅かされ続けていた。
それは、小田氏治の代も同じだった。父の政治は、周辺の勢力と戦って小田氏の勢力を拡大させていったが、天文十四年(1545)の河越夜戦では足利晴氏に付いて戦うも、北条家に敗北しており、政治の晩年にはすでに小田家の周囲は不穏な流れになっていた。
天文十七年(1548)に父が死去し氏治は家督を継ぐ、その時十四歳。
河越夜戦は、関東の諸将に衝撃を与え、北条氏に付くものも増えていた。そんな中で、弘治元年(1555)、関東に出兵して来た長尾景虎に呼応して、北条氏側に傾いていた結城政勝を攻めるも、敗北。
翌年、結城政勝は北条氏康と小田氏攻略作戦を開始、二月に北条&結城さんとゆかいな仲間に、小田領内の海老島城を攻められ、援軍を出すも城は落ち、勢いに乗った結城政勝に居城の小田城までも奪われてしまう。しかし、八月に奪還に成功。
さらに翌年の弘治三年(1557)には佐竹義昭に海老島城を攻め取られる。永禄元年(1558)に、多賀谷氏の下妻城を攻めるが、佐竹氏が援軍に来て負ける。その後も佐竹義昭は攻めてきて、都合三回も小田城を退いて土浦城(菅谷勝貞親子の城)に逃れている。
永禄二年(1559)には、小田城を奪還し、勢いに乗って結城氏に奪われた領地を取り戻そうと攻めるも失敗。長尾景虎の介入もあり、佐竹氏とは和睦をする。
永禄三年(1560)、佐竹氏や宇都宮氏と接近した氏治は、結城晴朝(政勝の子)が古河公方のもとへ年賀の挨拶に出かけている隙を狙って佐竹・宇都宮と結んで攻めた。結城氏の本拠・結城城は落城寸前となるも、古河公方の仲立ちによって和睦した。翌年、長尾景虎の小田原城攻めに参加している。
しかし、永禄六年(1563)氏治は景虎との約束を破って北条・結城に接近。北条氏に味方すると宣言。翌年、怒った景虎に攻められる。小田城はまたも奪われ、一度は取り戻すがまた奪われる。
永禄八年(1565)に佐竹義昭が没すると、これに乗じて小田城を奪い返す。・・・が、翌年、上杉謙信の全力の攻撃でやっぱり敗北。小田城は没収。その後五月に、どういうことか太田資正親子が氏治を頼ってくる。氏治は、太田資正を片野城、息子・梶原政景を柿岡城に住まわせたが、なんとその年の六月には佐竹義重に城ごと寝返った。
怒る氏治は、永禄十年(1567)に小田城を奪還。
ここまで何度も小田城を奪還してきた氏治だったが、永禄十二年(1569)に佐竹義重に敗れて奪われると、その後奪還することはかなわなかった。
この後も佐竹氏と争うも、ついに天正十一年(1583)に佐竹氏に孫を人質に出して降伏した。(しかし、実際は佐竹に奪われた旧領を奪い返そうとちょっかいを出していたもよう)この頃に「天庵」と号する。
天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原城攻めに参加せず、佐竹を攻撃していたとして、領地を全て没収される。その後、秀吉の臣下となることは許されず、娘が嫁いでいた結城秀康を頼る。慶長七年(1602)、越前にて没。死後、墓は常陸に移された。


※ここから先は見なくても大丈夫なコーナーです。

氏治「どうだ!この充実した情報量!」
秀綱「というわけで、坂東の不死鳥こと、小田氏治殿です」
業正「よし、もう帰ってもらえ」
氏治「なんだ、遠慮することは無いぞ!我は名家だが、気兼ねすることは無い!」
業正「しゃじけてらぃね!」
氏治「な、なんだ?」
秀綱「我が地方で、調子に乗った子供を諭す言葉ですよ」
氏治「どこに子供が?」
業正「・・・まぁ、いい」
秀綱「それにしても、すごい経歴ですね」
氏治「そうだろうとも!」
業正「確かに、ここまでやるかというくらいの負け続けだな」
氏治「負けて終わらないのが持ち味だな」
業正「相手にした勢力にとっては、鬱陶しいことこの上ないほどのしぶとさだからな」
秀綱「結局、何回本城を奪われて取り返しているんだか」
氏治「それだけ、小田城が周辺諸侯からは魅力的な土地だったと言うわけだよ」
業正「ああ、霞ヶ浦が豊かな資源を与える魅力的な土地だったそうだな」
秀綱「そのあたりは、こちらをご覧になると良いですね」
氏治「うむっ、海運で様々な品も入ってくるし、塩も取れるし、民はみな気の良い者たちばかりだからな!」
業正「そういえば、小田城は敵が奪っても、領民が信服せず苦労したらしいな」
秀綱「義昭殿も、年貢ボイコットまでされて非常にやりづらかったとおっしゃっていました」
氏治「くくぅ!嬉しい話ではないか!領民は天にニ君を抱かず、我を愛してくれる・・・となれば、我はそれに応えて頑張らねばなるまい」
業正「戦の手腕は壊滅的にダメだが、統治に関しては上手くやっていたというわけか」
秀綱「戦えば負けるといった印象ですが、実際には奪われた城を取り返しているわけで、下手だと言い切ってしまうのも、どうなんでしょう」
氏治「城を取り返すときは、勝手知ったる我が家のこと、造作も無いのだよ、はっはっは」
業正「城から討って出るとからっきしなのだがな、城ごと動けりゃよかっただろうに」
氏治「お、それは良いな、『小田氏治の動く城』とか」
秀綱「どこへ行くんでしょうね・・・それ」
業正「霞ヶ浦に落ちるのが関の山だな」
氏治「我を先頭に、坂東の地を佐竹や結城を蹴散らして進む、痛快だな!」
業正「・・・前向きさだけは買おう」
秀綱「敗北ばっかりなのに、本当にめげないのですね」
氏治「支えてくれる家臣がいる、領民がいる、それらが居る限り、我は負けない!・・・気持ちだけは」
業正「だからこそ、あの驚異的な粘りというわけだな」
秀綱「負け続けてますけど、討ち死にされていませんものね、驚くことに」
氏治「我は何度も蘇る!」
業正「やれやれ、佐竹殿や北条殿には同情するな」
秀綱「潰しても潰しても、復活されたら、落ち着けないでしょうねぇ」
業正「ま、小田殿の家臣も、落ち着けなかったようだが」
秀綱「わざわざ敵を増やすような行動ばかりですからねぇ・・・」
氏治「うまいこと立ち回ったつもりだったのだが、何故か悪い結果を生んでしまってな」
業正「・・・菅谷殿の忠臣ぶりは、表彰ものだぞ」
秀綱「私だったら、さっさと兵法具流の旅に出ていたでしょう」
氏治「菅谷親子には特に世話になっているから、小田が滅んだ後も就職先が見つかってくれて嬉しく思うぞ」
業正「確か、徳川に仕えたんだそうだな」
氏治「そうだ、我も徳川殿の次男・秀康殿に拾っていただいて、余生を過ごしたし」
業正「なんだかんだで、戦国の乱世を生き抜くとは、な」
氏治「ふっ!勝ち組だな!」
業正「・・・・・・・・・・・・」
秀綱「ああっ、業正様が怒りを通り越してヘコんでいる!」
氏治「業正殿、元気を出せ、あきらめたらそこで終わりだぞ!己がダメと思わねば大丈夫だっ!」
業正「お主が言うと、説得力があるのかないのか・・・だが、礼は言っておくとするか」

業正「同じ『おだ』でも尾張の者とは、印象がまるで違う、不思議な男だな」
秀綱「一口に戦国武将と言っても、様々な方がいらっしゃるものですね」
業正「しかし、土地の利・民の心服、これに君主の聡明さが加わっていたら、関東を制覇したのはあ奴だったりしたかもしれぬな」
秀綱「では、尾張の『おだ』殿を小田城に置いたらばっちりですね」
業正「・・・想像がつかんな」

おわり

戦国ちょっといい話・悪い話スレで、脚光を浴びた小田氏治さんでした。
負けっぱなしと言えばわかりやすいですが、その経歴はなかなかに複雑です。負けても、取られたところを取り返しているあたり、すごいんだかすごくないんだかわかりません。
確実に言えるのは、家臣の菅谷政勝さんと息子の政貞さんはすごいということです。よほどに、見限れない魅力の在る人物だったのでしょうね、小田氏治という方は。
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常陸の雄・佐竹義昭 

佐竹義昭(1531~1565)
佐竹十七代当主。常陸の戦国大名。
父・義篤は、弟の反乱に悩まされていた。しかし、天文九年(1540)には弟を討ち乱を収束させ、常陸北部を統一したが、天文十四年(1545)に父は三十八歳で原因不明(恐らくは病死か)の死を遂げる。義昭は十五歳で家督を継ぐこととなる。
分家の佐竹三家(北家・東家・南家)の補佐を受けながら、義昭は常陸の統一に取り掛かる。
かつては盟約を結んでいた江戸氏とも対立し、江戸氏は佐竹氏に圧迫されていく。天文二十年(1551)、順調に勢力を拡大しつつある義昭のもとに、河越夜戦で大敗を喫して以降、北条家に圧されていた上杉憲政から連絡があり、自分を保護して欲しいと申し込んでくる。その暁には、上杉の名跡&関東管領の職と言うおまけつきで。
だが、元々佐竹家は清和源氏の血筋であり、新羅三郎義光の流れを組む名家。名門の誇りを持つ義昭はこれを拒否した。
弘治三年(1577)、宇都宮家の内部で内訌が発生した時は、宇都宮広綱を支援し、広綱を宇都宮城に帰還させている。永禄三年(1560)には結城晴朝を攻めて勝利している。永禄五年(1562)には上杉輝虎(後の謙信)と結んで小山城を攻めた。同年、義昭は嫡男の義重に家督を譲り隠居した。が、実権は握り続けた。
永禄六年(1563)には那須氏を攻めて勝利しており、永禄七年(1564)、北条氏・結城氏と手を結んだ小田氏治が攻撃してくる。義昭はこれに対して上杉氏・宇都宮氏と結んで小田城を奪い、側室の実家の大掾氏も傘下に収める。
永禄八年(1565)、11月3日に急死した。三十五歳没。

※毎回おなじみのどうでもいいおまけコーナーです。飛ばしても問題ありません。

義昭「どうも、よろしくおねg・・・ごほっ」
秀綱「登場開始から血を吐いた!」
業正「というわけで、今日は佐竹義昭殿にお越しいただいたが、具合が悪いのであちらからお帰りを」
義昭「・・・いや、いつものことなので、お気になさらず」
業正「そうか、後で汚れた畳の代金は払っていただくが、よろしいな」
義昭「・・・ええ、それはもう」
業正「それにしても、病いがちの割にはかなり領土の拡大が活発だな」
義昭「病がちゆえ、ですよ、いつ死ぬか判りませんから」
業正「寿命がラスボスというやつだな、よくわからんが」
義昭「シスコンチート爺にはわからんでしょうね」
業正「・・・よく聞こえなかったが今なn」
義昭「げほっごほっ失礼・・・佐竹は洞という独自の、縁組を利用した連合を組んでいたのですが、これが統制力の弱いものでして、どいつもこいつも時勢によってくっついたり離れたりしておりまして」
業正「・・・もはや、血縁では互いの信頼も保てぬのは何処も同じか」
義昭「江戸氏も小田氏も・・・いい加減こっちもブチキレましたね、あいつらの足元を見ない上から目線に」
秀綱「高幹殿に少し聞いていましたが、常陸のごたごたっぷりも相当のものだったようですし、苦労されたでしょう」
義昭「ああ・・・あの剣聖様の本家(大掾家)も内訌を起こして衰退していますからね」
業正「その点、佐竹家は内訌をうまく治めて、その後勢力の拡大を行えたわけだ」
義昭「父上の奮闘の賜物ですよ。それがし側で見ておりましたから、自分の代で佐竹の拡大を頓挫させたくはありませんでしたし」
業正「縁のある者らをよく貪欲に攻めて行ったな」
義昭「結局、縁が邪魔をしていたのですよ。縁にかこつけて、調子のいいときだけ結んで、用がなければそっぽを向くという、悪循環を生んでいたのです、まぁ、佐竹の洞という関係のゆるさが招いたことかもしれませんが」
秀綱「義昭殿も、ご自身の血筋に邪魔されて、せっかくの関東管領の座を逃してしまいましたねぇ」
義昭「ははは、これは手厳しいですな・・・」
業正「仕方が無いだろう、清和源氏は武門の名家、その名跡は捨てられまいよ、わしが在原氏であるように」
義昭「根拠の無い自称を並べられても」
業正「あー、なんか聞こえt」
義昭「申し訳ない、今日は緊張しているせいか、体調がっ、げほげほげほ」
秀綱「困った病気ですね・・・」
業正「親父殿も祖父殿も、50歳に届かず亡くなっているのか、病弱短命だな」
義昭「どういうわけか、そのようですね。息子にこの特徴が遺伝しなくて本当に良かった」
業正「しかし、三代続けて・・・か、呪われてるんじゃないのか」
義昭「まさかそんな」
秀綱「確か、お爺様の義舜殿は、一門である山入家を滅ぼしてらっしゃいますよね」
業正「殺された一門の恨みで」
義昭「いや、いやいや、そんな怖・・・根拠の無いことがあるわけが」

業正「・・・で、お主にシスコンとか吹き込んだのは、どこのどの魚民だ」
義昭「ああ、その安房の義堯殿です。義兄弟の契りを結んだと聞きましたが」
業正「あやつに妹を嫁がせたのも、未だに認めておらんわ!」
義昭「はぁ、そうなのですか(見事にシスコンじゃないか、黄斑もたいしたことないな)」
業正「まぁいい。後であいつは活けジメにしてやる」
義昭「それはそれは、頑張ってください」
業正「ああ、畳の代金だが・・・一枚変えると色合いが変わってしまうのでな、全面取り替えるからそのつもりで、あとで請求が行くからな」
義昭「・・・承知(やられた・・・とんだ喰わせジジイめ)」

おわり

佐竹義昭さんでした。佐竹の独自システム「洞」は義昭のおじいさんのころに成立したものらしいです。
「血縁者でみんななかよく」という寄り合い連合で、実態は領主それぞれが勝手に土地を支配しており、佐竹は盟主だけどそんなに存在感と権力が効くものでもなかったようす。
ざっと調べたただけなので、間違ってたらごめんなさい。
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わんわんお!三楽さん 


資正「まるで私が犬にしか興味が無いように・・・」
業正「だって、あてはまったんだから仕方が無かろう」
秀綱「天にも人にも“犬が好きなことを”恥じる所がないこと・・・ではないのですか?」
資正「そこ!勝手に犬好き関連の言葉をねじ込まない!!」
業正「違和感が仕事をしないのがいかんのだろう」
資正「言っておきますが、犬を飼い始めたのは元は軍事用なんですからね、軍事用!」
秀綱「そうなんですか?」
資正「そうですとも!ですから今回は軍事用に犬を使用するまでの方法をお教えしましょう。自宅が北条家に包囲された時などに使用されるとよろしかろうと」
業正「ほう、それは興味深い」
秀綱「私も囲まれて降伏したことありますから、それはいいですね」
資正「では、まずは子犬を100匹用意していただきたく」
業正「突然難易度が上がったな」
資正「城一つにつき、50匹ほどいると安心ですぞ。連絡を取り合いたい城の数で飼う頭数は考えてください」
秀綱「通信途中で討ち取られたり、野生に帰ってしまうこともあるんでしょうしね」
資正「ですね。さて、100匹わんちゃんを二つの城で50匹づつ育てましょう。ある程度育ったら、2つの城の犬を入れ替えます。この犬の住み替えは、2.3ヶ月に一回は行うと良いかと」
業正「ああ、なるほど、犬が逃げても帰ってくる習性を利用すると言うことか?」
資正「さすがは黄斑殿、飲み込みが早いですぞ!犬たちに帰るべき場所を認識させておくこと・・・これが出来ていれば、あとは有事にその犬たちに付文させて外へ解き放てば、外部と連絡を取ることが出来ます」
秀綱「包囲されていても外と連絡が取れれば、城の軍勢と援軍で、攻めて来ている側を挟み撃ちできますからね」
資正「たとえ警戒されていても野良犬と区別は付きませぬし、犬の足は人よりもずっと早いゆえ、人の伝令よりも捕らえられにくいという利点があります」
業正「成る程な、しかし実際に運用してみなければ、良さがわからんだろうな」
秀綱「犬を100匹ですからねぇ、えさ代とか糞尿の始末とか、現実的なことも考えるとなかなか・・・」
資正「大変でしたな、本当に、最初は領民も家臣も冷ややかな目で私を見ていたものです」
業正「よくぞ途中で投げ出さなかったものだ」
資正「家臣たちも、犬の世話をするうちに、情が移ってきた者もおりましたし、戦で役に立ってからはもう、皆でちやほやと」
秀綱「その輪の中に、入ってこなかった方もいらっしゃったとか」
資正「ああ、資房・・・氏資の奴ですか」
業正「初名は資房殿か、改名したのは・・・もしかしなくとも」
資正「ええ、北条家に降伏して、あれが私を岩付から追い出したときに、頂いたそうです、『氏康』の『氏』をね」
秀綱「そんなことになっていたとは・・・」
資正「残念ながら・・・あれが氏康殿の娘を嫁にしてから、だんだんと北条に親しんで行き、私は北条に馴染めなかった、そこで親子の間に決定的な亀裂が出来たと感じますな」
業正「それで、次男に家督を譲ろうともしたということか」
資正「家中が割れるのはまずいですし、踏み切る前に資房は出家して逃げまして、そうしているうちに国府台の合戦で敗北した隙を突かれて次男もろとも追放、というわけで」
秀綱「資正殿は、兄上とも北条のことで袂を分かって、その上実の息子とまで」
資正「これも全て北条のせい!・・・なんてね。結局のところ、一族揃って頑固なんですよ。自分でこうと決めたらお互いに引けぬのです」
業正「そういうものだよ、状況次第で簡単に己を曲げるようでは、坂東武者ではないわ」
資正「まったくですなぁ、ははは」
秀綱「そう言えば・・・岩付追い出されて、わんちゃんたちはどうなったんでしょう?」
資正「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
業正「秀綱殿、なんか地雷だったようだぞ」
秀綱「例えようも無く落ち込まれてしまいましたね・・・私としたことが、申し訳ないことを」
業正「あの様子では、犬たちはきっところ」
資正「可愛い我が子達は・・・全部、氏資めに取られてっ・・・!!あいつめッ!!」
業正「・・・」
秀綱「結局、太田家総犬好きでしたか・・・」

おわり

城を攻めるのは結構リスキー。防衛されて城の前にいるうちに、他から攻められたらアウト。いかにして城側を孤立させるかがキモでしょう。
河越夜戦で、氏康は河越城の綱成と連絡をつけて、同時に連合軍に奇襲を仕掛けています。連携は大切ですね。
長野家も太田家も、結果だけ見れば「負け組み」に見えますが、負けていてもその内情には色々なドラマがあり、何もしていないから負けたわけではなく、それぞれの多くの苦闘が見られるので、細かく調べていくと誰も嫌いになれません。イモヅルです(笑)

次回はまたしてもノブヤボネタと、あと小野さんの予定です。
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太田資正・英傑の子孫 

太田資正(1522~1591)
名将と呼ばれた太田道灌のひ孫にあたる、武蔵国の武将。
扇谷上杉氏に仕えていたが、資正の父・資頼の嫡男である兄・資顕は、衰退する主家を目の当たりにし北条家とのつながりを強めていた。
大永四年(1524)、資正が3歳のころ、父は主家を裏切って北条氏綱と結び、かつて岩付太田氏の居城であった岩付城(二年前に資頼が奪取した)を渋江右衛門大夫の手から奪還する。しかし、扇谷上杉家に攻められるとあっさり降伏し、帰順する。
翌年、扇谷上杉氏の居城であり、資正の曽祖父である道灌が縄張りを行った江戸城が北条氏綱によって奪われると、資正親子の居城である岩付城も家臣の反乱によって北条家の手に渡ってしまう。
父が亡くなるとまもなく、北条家寄りの兄・資顕との間に亀裂が生じ、資正は岩付城を出奔、扇谷上杉氏の重臣で舅である難波田憲重の元に身を寄せる。
天文十五年(1546)の河越夜戦では兄弟が北条と上杉連合軍に分かれて戦うことになり、これが北条家の勝利に終わり、扇谷上杉氏が滅びると資正は上野国新田に移った。
翌年、松山城を急襲して奪還、10月に兄が死去すると、当主が不在の岩付城を攻め、城と太田家の家督の両方を奪取する。しかし、松山城を任せていた上田朝直が北条に寝返り、岩付城も北条軍に囲まれ、天文十七年に降伏する。
それからは、おとなしく北条家の臣として働くが、永禄三年(1560)に上杉謙信が北条討伐に関東へやってくると、反北条をかかげてこれに参加。再び北条家との戦いの日々が訪れる。
北条家は離反した太田家の城(松山・岩付)を攻めるが、軍用犬を用いた連絡網によって援軍を素早く動かす資正によって侵攻を阻まれ続けた。
だが、資正の長男・氏資の裏切りによって岩付城を追放されてしまう。
その後、宇都宮氏を頼って岩付奪還を目論むもうまく行かず、常陸の佐竹義重に身を寄せ、以降は佐竹家臣として小田氏治から奪った片野城をまかされ、北条家と戦った。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐に参加し、北条家の最後を見届け、翌年、病没。最後は岩付城に戻ることは出来なかった。

※本編終わりです。あとは余計な何か。

業正「とりあえず、わんこ同伴はやめてくれ」
資正「ええっ、そんな、犬と言えば私。私と犬は人犬一体と言っても過言では」
業正「犬との絆は、少し離れた程度で無くなるほどもろいのかな?」
資正「そんなわけがありません!わかりました、外に待たせてきます・・・さ、外で待つのだ。こなた・かがみ・つかさ・・・寒いだろうが外で!」
業正「(ダメだこの武将、最早なんともならんな)・・・・・・秀綱殿」
秀綱「はいはい、わんこちゃんたちは別室でおもてなしさせておきますよ」
資正「おお・・・剣聖殿、かたじけない!我が子たちを頼みます!」
業正「犬に名前までつけているのか」
資正「何かおかしいですか?」
業正「色々と聞きたいこともあるが、そこを突くと内容があらぬ方向へ逸れそうなのでやめておく」
資正「えっ、犬の名前の由来とか、他の子も色々紹介だけ」
業正「それは別の機会にな」
資正「ちぇー」
秀綱「やめてください、対抗して業正様が12人の姫様たちの、お一人づつの可愛さ語りを始めかねません」
業正「・・・・・・・・・いやいや、秀綱殿、わしはそんなことはせんぞ?」
秀綱「私の目を直視しておっしゃってください」
業正「・・・ともかくだ。そんなに犬ばかり愛しているから、息子に城を追い出されるのではないのか」
資正「氏資なんて、あんな犬の良さもわからぬ息子なんて、飾りですっ、あいつに犬の素晴らしさはわからんのですよ!」
秀綱「言い切りましたね」
業正「一応、一般的には吃音が悪い長男が嫌で、次男を依怙贔屓したゆえ、親子関係が上手く行かなかったのが原因とされているのだが・・・」
資正「滑舌が悪いくらいで嫌うほど、私も心の狭い奴ではありません」
秀綱「趣味に理解が無いのが許せないのは、どうなんでしょうねぇ」
資正「いや、実の息子に理解されない辛さをですね」
業正「犬をあまりにも溺愛しすぎて、家臣たちまでヒキ気味だったと言うではないか」
資正「うっ・・・で、でも、軍用犬としての有用性が理解されてからは、家臣たちも受け入れてくれました・・・よ」
業正「さすがの風魔の忍びも、犬による情報網は捉えきれなかったようだな」
資正「ええ・・・それでも、多くの犬たちの犠牲を払いましたし、犬の訓練も時間がかかりますから、犬を伝令に使うというやり方は、あまり他の方はやらなかったようです」
秀綱「資正殿のご活躍は、道灌殿の再来と讃えられておりましたね」
資正「・・・大きすぎる曽祖父を持つと、その重圧も相当なもので。どうにか、名家の面目はほどこせたかとは思いますが、その賞賛には恐縮するばかりです」
業正「道灌殿と言うと、あの方は猫がたいそうお好きだったようだが、資正殿はどうなのだ?」
資正「猫ですか?そりゃ、好きですよ。猫は可愛いですし、鼠害も防いでくれますし・・・でもどちらと問われれば犬ですね!」
業正「曽祖父と嗜好がかぶると目立てないしな」
資正「ちょ、そんなつもりじゃありませんからね!?」

つづく

今回も色々とひどくてごめんなさい。
戦国のトップブリーダーこと太田資正さんでした。次回も引き続き、犬好きの太田さんのネタをお送りいたします。
資正の飼ってる犬の名前は、某歴戦ゲー動画のとあるシリーズさまへのリスペクトです。

いつも拍手をありがとうございます。今後もすっ飛ばし馬鹿日記ですが、よろしくお引き回しの程よろしくお願いいたします。
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